櫛部喜男
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喜男は東京市小石川区戸崎町で旧会津藩士・吉田喜八郎と妻ヨシの二男[注釈 1]として、1905年(明治38年)3月24日に出生。生後間もない七ヶ月の頃、静岡県沼津で弁護士をしていた櫛部荒熊と妻きくの養子となる[注釈 2]。
1912年(明治45年)4月、東京市赤坂区の氷川尋常小学校に入学。1917年(大正6年)3月に同校を卒業した喜男は私立明治中学校に進学[2]。1921年(大正10年)4月に明治大学英法学部予科に入学したが、翌年には陸軍依託第3期操縦生の試験に合格し、12月1日付けで所沢陸軍航空学校へ入校した[注釈 3]。約8ヶ月の教育を終え1923年(大正12年)7月に卒業すると、航空局で一年ほど勤務。その間に一等飛行機操縦士の免許を取得した。1925年(大正14年)5月には航空局の上司、児玉常雄技術課長の推薦で設立されたばかりの御国航空練習所教官に就任[4]。
御国航空練習所は「空の宮様」と呼ばれた山階宮武彦王が宮家の資金で創設した飛行機練習所。当時民間の飛行学校に通うと免許の取得までに莫大な費用が必要とされたが、これが民間航空発展の阻害となっていると考え、無料での飛行士養成を図った。
教育には一人当たり5万円の費用がかかり、予算の都合上、練習生は練習員(無免許者)3名と操縦士(三等免許所持者)3名の計6名で始動。格納庫は立川陸軍飛行場の西側、日本飛行学校や朝日新聞社と同じ区画にあった。助教官には旧南部八戸藩主・南部利克子爵の二男で山階宮の御学友であった南部信鑑[注釈 4]二等飛行機操縦士が就いた。
1925年(大正14年)9月に盛大な入所式が行われ、その際には助教官南部の母・詮子が紋付羽織袴着用で喜男の操縦するアブロ5式04K型練習機に同乗。人生初飛行を体験している。その後、御国航空練習所は山階宮武彦王の体調悪化もあり、1926年(大正15年)7月1日をもって閉鎖。喜男は相羽有が校長を務める日本飛行学校へ教官として招かれた[5]。
同年11月、明治神宮体育大会が第3回にして初めて飛行競技が加えられる事となり、喜男は水代藤松一等機関士と組んで日本飛行学校代表として参加。飛行競技295点、整備競技300点、合計595点で第一位となった。これにより山階宮優勝杯のほか、航空局より賞金1,200円、帝国飛行協会より同1,600円、計2,800円が授与されている。
1927年(昭和2年)1月、日本電報通信社(電通)に航空部が創設され、同社は航空局に操縦士の推薦を依頼。児玉常雄は一等飛行機操縦士の喜男を推挙し、日本飛行学校から電通への移籍が決まった[6]。
1928年(昭和3年)11月19日の午後2時50分頃、一〇式艦上偵察機(民間改造型)を操縦し、水代機関士同乗で三重県にある明野ヶ原陸軍飛行場を発つ。原稿や写真などを届けるため京都へ向かったが、到着予定時刻を過ぎても現れず消息不明となった。情報は錯綜したが一週間後の26日にやっと有力な目撃証言がもたらされ、奈良県宇陀郡室生村にある黒石山の山腹森林で墜落大破した機体と2人の遺体が発見された[7]。
また2人が消息を絶った翌日には、自己の輸送任務を終えた岩田正夫一等飛行機操縦士が京都から明野ヶ原飛行場への帰還中に行方不明機を捜索していたところ、発動機のトラブルが起こり伊勢湾に墜落[7]。電通航空部では2日間で3名が殉職する事態となった[注釈 5]。
喜男の遺骨は当時、台湾の台中商業会議所で顧問を務めていた養父・櫛部荒熊に引き取られ東京へ帰還。葬儀は12月5日に青山斎場で日本電報通信社の合同社葬として盛大に営まれた[8][注釈 6]。
脚注
注釈
- ↑ 父・喜八郎の旧姓は石塚。先妻との間に6人の子があり、喜男は後妻であるヨシとの間の2番目の子[1]。
- ↑ 実子同然に育ったが、櫛部の戸籍に入ったのは1911年4月で喜男が6歳の頃[1]。
- ↑ この年度より海軍への依託も始まる。海軍依託第1期練習生は5名。陸軍依託第3期操縦生は石山全尚、鈴木友茂、和田喜三郎、熊野季福、中島忠英、岩佐正男、小金沢熊夫、酒井憲次郎、松下辨二、櫛部喜男の10名[3]。
- ↑ 千葉県津田沼にある伊藤飛行機研究所の第31号卒業生。福長浅雄や青島次郎の後輩に当たる[4]。
- ↑ 櫛部と水代の墜落現場には殉職地標碑が、多気郡東黒部村字天下一の海岸には岩田の殉職記念碑が建てられた[7]。
- ↑ 2人には傷害保険が掛けられており、中央火災傷害保険より櫛部に3千円、水代に2千円が支払われた。保険の掛けられた飛行士が事故死した我が国初の事例だったとされる[9]。
出典
- 1 2 空駆け 1983, p. 72.
- ↑ 『日本電報通信社史』日本電報通信社、1938年、707-708頁。NDLJP:1687126/412。
- ↑ 平木国夫『日本飛行機物語』 首都圏篇、冬樹社、1982年6月、102頁。NDLJP:12062593/55。
- 1 2 空駆け 1983, p. 73.
- ↑ 空駆け 1983, p. 74.
- ↑ 空駆け 1983, p. 76.
- 1 2 3 『電通66年』電通、1968年、117頁。NDLJP:3444920/61。
- ↑ 空駆け 1983, p. 77.
- ↑ 『保険銀行時報』1400号、保険銀行時報社、1928年12月、15頁。NDLJP:1582364/8。
参考文献
- 平木国夫『空駆けた人たち:静岡県民間航空史』静岡産業能率研究所(発売:創林社)、1983年3月。
