歌沢寅右衛門 (うた沢)

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歌沢 寅右衛門(うたさわ とらえもん)は、うた沢節のうた沢寅派の名跡。元は「歌沢虎右衛門」だったが四代目の時に「歌沢寅右衛門」と字を変更している。

初代は歌沢笹丸といい本名は笹本彦太郎(寛政9年〈1797年〉- 安政4年〈1857年9月4日)。本所南割下水の500石取りの旗本・笹本忠良の長男として寛政9年(1797年)に生まれる。天保11年(1840年)に家督を養子・忠庸に譲り隠居[1]。笹本の屋敷に小唄好きが集ったのが歌沢の始まり。安政4年に嵯峨御所より許しを得て歌沢絃三(歌沢大和大掾)を名乗った。同年9月病没。

二代

本名は平田虎右衛門(文化10年〈1813年〉- 明治8年〈1875年10月2日)。江戸は日本橋橘町に住む畳職人であり、初代と血縁関係は無い。当時流行の小唄を嗜み天性の美声として「橘町平虎」の名で評判を呼んだ。虎右衛門に教わっていた隠居旗本の笹本彦太郎(雅号・笹丸)は虎右衛門に流派を立てることを勧め、安政2年に創設[2]。ただ虎右衛門は一介の畳屋であるため形式上は笹本が初代家元となり、安政4年には嵯峨御所より歌沢大和大掾の許しを得て正式な流派とした。虎右衛門は笹本より家元を譲りうけ歌沢の二代目となる[3]

文久2年(1862年)に笹丸の顕彰碑を向島木母寺に建立。笹丸の創ったものを継承する意味合いを込めて「二世歌沢虎右衛門」と碑面に刻んだが、無断だったことで関係が拗れ、哥沢芝金等は袂を分かったとされる。

三代

本名は平田かね(天保9年10月15日1838年12月1日〉- 明治37年〈1904年12月6日)。二代目の実子。豪商として知られた丸山伝右衛門の後援と寵愛を受け、娘・ゆきを産んだ[3]

当初歌沢美知の名で活動し、明治14年(1881年)に三代目虎右衛門を襲名。古典に精通し唄も絃も優れた名手だったが晩年は困窮[1][注釈 1]。娘・ゆきの指導に当たり、四代目を継がせている。

四代

本名は平田ゆき(明治5年8月5日1872年9月7日〉- 昭和18年〈1943年3月7日)。日本橋橘町で歌沢美知(後の三代目)の娘として生まれる。父は三代目の後援者で材木問屋の丸山伝右衛門であり、第二代総理大臣夫人の黒田滝子は異母姉にあたる。

明治38年(1905年)に四代目を襲名。虎の字を嫌って表記を「虎右衛門」から「寅右衛門」に改めた[4]。一時信州小諸に居住したが、東京が哥沢派に占められる状況を見て帰京[3]。寅派の退勢を挽回した。昭和2年(1927年)長女に名跡を譲り、隠居後は二代目歌沢相模を名乗る。昭和18年下谷二長町の自宅で没した[1]

五代

本名は平田秀子(明治34年〈1901年4月10日 - 昭和58年〈1983年12月19日)。

東京の生まれで四代目の長女。若い頃から母の元で修行し寅秀の名で活動。昭和2年(1927年)に五代目寅右衛門を襲名した。

六代

脚注

参考文献

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