嘉永2年(1849年)、武市瑞山に嫁ぐ。夫の瑞山は土佐の若手志士たちと交流が深く、富子はたびたび訪れる志士たちの応対に努め、夫を助けた。文久3年(1863年)、瑞山が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために、その日以来、板の間で寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという。慶応元年(1865年)、夫が切腹となると家財のことごとくを没収され、困窮を内職でもって生計を立てた。明治24年(1891年)に夫の名誉が回復されると、下賜を受けるようになり、「祭資料」や「金参千円」と書かれたのし袋が、高知県立歴史民俗資料館に収蔵されている[3]。
瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京に引っ越すも、明治45年(1912年)、半太とともに土佐に帰郷した。晩年の富子については、中肉中背で優しい面差しの可愛いお婆さんで、朝晩の挨拶、帰宅時や食事の挨拶行儀作法などの躾は厳しく、武士の夫人としての凛とした風格を備えていたとの逸話が残されている。また、80歳を超えて初孫が生まれた際は、「八十路坂 とくにこえし身に 初孫の 守りそだつるぞ たのしかりける」と、その喜びを和歌で表現している[4]。
叔父が島村雅事、従弟が島村衛吉である。