武恵妃
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武則天の伯父の武士譲の孫の武攸止(武懐運(名は弘度)の子)と妻の楊氏のあいだの娘。彼女の祖父が武則天のいとこに当たる。武攸止の死後、幼くして後宮に入った。玄宗の即位後、寵愛を得た。当時、他に寵愛を得ていた者に、趙麗妃[1]・皇甫徳儀・劉才人らがいたが、彼女らの寵愛が薄れた後は武恵妃が独占したと伝えられる。
開元初年に2人の男子、1人の女子を産んだが、幼児期に夭折し、玄宗は悼んでいた。そのため、寿王李瑁は宮中で育てず、寧王李憲に命じて宮中の外で育てさせた。その後、盛王李琦と咸宜公主と太華公主を産んだ。
開元12年(724年)、皇后であった王氏が廃された後は、恵妃の地位を与えられ、宮中でも扱いは皇后に対するものと同等とされた。母の楊氏は鄭国夫人に封じられ、弟の武忠は国子監祭酒に、武信は秘書監に昇進した。
開元14年(726年)、玄宗は武恵妃を皇后にしようとした。しかし、御史の潘好礼から「武一族は陛下の不倶戴天の仇であり、また張説が立后の功を立てて、宰相になろうと噂されている現状です。さらに、皇太子の李瑛(趙麗妃の子)が危険にさらされます」と反対に遭い、取りやめたと伝えられる。なお、この年に趙麗妃も死去している。
その後、李林甫からの運動を受けて、彼を抜擢した。そのため、李林甫は宰相にまで昇進した。
開元24年(736年)、武恵妃は、皇太子李瑛と鄂王李瑶(皇甫徳儀の子)・光王李琚(劉才人の子)を、自身に対する恨み言を言っていたとして玄宗に訴えた。李林甫は武恵妃の意を受け、李瑁(妃は楊玉環)を皇太子にするために、朝廷において工作をおこなった。
開元25年(737年)、李瑛ら3名は廃された上、自殺を命じられた。しかし、李瑁が皇太子に立てられないまま、武恵妃は12月7日に死去した。40余歳であった。玄宗はこれを悼んで皇后に追封し、長安に立廟した。死後に貞順皇后と諡され、その墓は敬陵と称されたが、大喪の礼はなかった。
最終的に、皇太子には李璵(後の粛宗、楊氏の子)が立てられた。粛宗の治世から、宗廟に祀ることはなかった。
子女
- 夏悼王
- 懐哀王
- 上仙公主
- 寿王李瑁
- 盛王李琦
- 咸宜公主
- 太華公主