武政英策
日本の作曲家
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人物
出生時の姓名は和気政之であったが、武政家の跡を継ぎ、武政政之となった。「政」という字が続くので、東京に出るときに英策と名のりはじめた[2]。15歳で電機学校(現・東京電機大学)に入り、卒業後、就職せずに門馬直衛と山田耕筰に師事。耕筰の助言を受け、23歳で京都で機械設計の仕事に就く[3]。
1937年にNHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者となる。新興キネマの映画音楽監督も務めていたが、戦争が近づき、34歳で大阪大学航空学研究所で低速飛行機やオートジャイロの研究に携わる[3]。
1945年に大阪の空襲で自宅が焼失、前妻の貴美恵(1950年没)とともに喜美惠の実家があった現在の南国市に疎開[3]、終戦後は中央に戻らず亡くなるまで37年間高知市に居住した。この間、高知県内にバンドを数多く誕生させ[3]、1952年には、のちにペギー葉山が歌ったことで広く知られるようになった「南国土佐を後にして」の作詞・作曲も行った。後妻の春子と再婚[3]。
徳島の阿波踊りに対抗する形で、1954年に高知商工会議所青年団が企画したよさこい祭りに参画。民謡「よさこい節」をもとに、よさこい祭りで使用される「よさこい鳴子踊り」の作詞・作曲を行い、さらには鳴子を使った踊りを思いついた。「よさこい鳴子踊り」の楽曲の自由なアレンジを許したため、現在では様々な編曲がなされている。よさこい祭りでは功績を讃え、8月12日の後夜祭(本番受賞チームが出場する)で、本番のよさこい大賞の上位の賞とされる「武政英策賞」が設定されている。
作品
著書
- 『土佐ふるさとのうた:武政英策作品集』高知新聞社、1983年12月。
- 『歌ありてこそ』武政春子、2000年7月。