毛利吉安 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 天正元年(1573年)[1]死没 寛永17年4月1日(1640年5月21日)[1]改名 森吉安[1] 凡例毛利 吉安時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期生誕 天正元年(1573年)[1]死没 寛永17年4月1日(1640年5月21日)[1]改名 森吉安[1]別名 権八、九郎左衛門[1]戒名 宗才[1]墓所 南泉寺[1]幕府 江戸幕府主君 豊臣秀吉、毛利高政、高成、徳川家光氏族 藤姓毛利氏父母 父:森高次[2]兄弟 高政、吉安[2]妻 山田出雲守[注釈 1]の娘[1]子 吉房、吉隆[1]テンプレートを表示 毛利 吉安(もうり よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。豊後佐伯藩初代・毛利高政の弟にあたる。 鯰江氏の庶流・森高次の次男。幼少期から父兄とともに豊臣秀吉に仕えた。文禄4年(1595年)兄・高政が豊後国日田郡・玖珠郡のうちに2万石を与えられると、吉安はこれに付属して2,000石を分知された[4][2]。 慶長6年(1601年)高政が佐伯2万石に封じられると、吉安も領内の床木・堅田2郷10ヶ村[注釈 2]の2,000石に移った。寛永5年(1628年)に高政が没、同9年(1622年)跡を継いだ高成も死去する。高成の嫡子は当時3歳の高直だったため、吉安は高成の異母弟・高定を次期藩主に擁立した。しかし翌年、高直が家督を継承するとお家騒動に敗れた吉安は所領を幕府へ返上して旗本に転じ[注釈 3]、新たに上総国に200石と蔵米1,800俵を給されることとなった[4][5][8][2]。 後年、家名を父祖の森氏に戻している。寛永17年(1640年)68歳で没。南泉寺に葬られ、以後同家の菩提寺となった。家督は嫡男の吉隆が継いだが、孫の代に無嗣断絶。庶長子の吉房の家系も旗本家となったが、こちらも18世紀に断絶している(森忠右衛門を参照)[9]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 松平忠輝の重臣。慶長16年(1611年)付けの定書に大久保長安や松平重勝ら家老衆とともに連署が見られる[3]。 ↑ 床木村と、堅田村内の塩月、西野、府坂(一部)、棚野、石打、波越、泥谷、津志河内、柏江の9村(いずれも佐伯市)[5][6]。 ↑ 旧吉安領は天領となり改めて佐伯藩の預地とされたが、寛文8年(1668年)藩領との間に紛争を生じたため預地を解かれて日田代官支配となったが、天明3年(1783年)再度佐伯藩預地となった[7][8]。 出典 1 2 3 4 5 6 7 8 『寛政重修諸家譜』, p. 213. 1 2 3 4 『寛政重修諸家譜』, pp. 208–213. ↑ 和泉 1995, pp. 384–385. 1 2 豊田 1992. 1 2 『大分県史』, p. 84. ↑ 『大分県の地名』, § 堅田村. ↑ 『大分県史』, pp. 84–85. 1 2 『大分県の地名』, § 佐伯城跡. ↑ 『寛政重修諸家譜』, pp. 213–214. 参考文献 豊田寛三「毛利高政」『国史大辞典』吉川弘文館、1992年。 大分県総務部総務課 編『大分県史 近世篇』 1巻、大分県、1983年。 『大分県の地名』中野幡能(監修)、平凡社〈日本歴史地名大系〉、1995年。ISBN 978-4-582-91018-6。 和泉清司『徳川幕府成立過程の研究』1995年。 『寛政重修諸家譜』 17巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0221-5。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles