毛遂
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嚢中の錐
趙の孝成王7年(紀元前259年)、長平の戦いの後、疲弊した趙の首都の邯鄲を秦の王陵率いる軍が包囲した。長平で数十万の将兵を失った趙はなす術がなく、他国に援軍を求める事となり平原君が楚へ赴く事になった。平原君は自らの食客から20人の文武に優れた者を選び、交渉の場に同行させようとしたが、最後の1人を決めあぐねていた時に平原君の前に毛遂が現れ自分を連れて行くよう申し出た。平原君は「賢人とは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ来て3年になるが、未だに評判を聞いていません。お留まり下さい」と断った。毛遂は「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ」と返し、この返答が気に入った平原君は毛遂を最後の1人に選んだ。これが「毛遂自薦」「嚢中の錐」の原典である[2]。
平原君と使節団は楚に入り、考烈王に合従を説いたが、楚は前に秦に侵攻されたこともあって脅威に思い中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち、「白起は楚の首都を焼いて楚の祖先を辱めました。合従は趙のためではない、楚のためです」と弁舌爽やかに説いて考烈王はこれを容れ、邯鄲に援軍を派遣する事を約束した。平原君は帰国すると自己の人物鑑定眼の不足を悔いると共に、毛遂の才とその才がもたらした結果を喜び帰国後に毛遂を上客とした。
この後、平原君を説得した李同率いる三千人の決死隊が時間を稼ぎ、楚の援軍と魏からも信陵君が率いる援軍が来援し、王陵に代わって王齕が率いる秦軍は撃退され、趙は窮地を脱した。
毛遂の死について
毛遂の死とその時期については近世の資料または伝承により2つの説が有る。