民族識別工作
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1953年の調査では中国の少数民族の数は400ほどであったが、実態は同一民族の支系や自称であったり方言や地域性、生活集団の違いによる自称が大半であった。
1954年から1990年ほどまでの中華人民共和国政府による民族識別工作により統合を推進し、56の民族が公認された[1]。漢族を除く55の「少数民族」は、民族ごとに、その集住地域が区域自治の領域として指定され、その地において、その民族に対し「民族の文字・言語を使用する権利」、「一定の財産の管理権」「一定規模の警察・民兵部隊の組織権」「区域内で通用する単行法令の制定権」などが認められている[注釈 1]。
新中国は、清朝最後の皇帝で満洲国執政(皇帝)だった愛新覚羅溥儀を満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に任命して民族識別工作を行い、満族(満洲民族)を一定の権利を有する少数民族として公認した[注釈 2]。
1949年に建国された中華人民共和国は、かつてのソビエト社会主義共和国連邦(ソ連、ソビエト連邦)が建前上は「さまざまな民族に自治権を付与した連邦制国家であった」のとは異なり、中国共産党は各人民との政治協商体制である人民民主主義独裁を採用している。新中国建国後の民族公平性の実現の為、各級人民代表大会の民族代表を選出するにあたってどんな民族がいるか、名称・人口が不明であり、各地方ごとにどのような民族が居住しているかの明らかな把握が必要であった。そのうえ、戸籍制度と民族政策を結びつけるために民族成分を明らかにしなければ民族政策は実行できないし、勝手に民族身分を自称したり記入することは許されない。そうして、民族識別工作が1953年ほどから本格的に行われた。これを受けて少数民族の多い地域では、全国一律の政策にある程度の猶予を加える「民族区域自治」を実施してきた。
1954年には400の申告のうち、弁別と統合により39の民族が認定される。
1954年から1964年にまでかけて、華南にて異なる族称を調査し15の民族が認定される。
1965年から1978年までにかけては、文化大革命の影響を受けて一時的に政策が鈍化し、西藏自治区のロッパ族のみが認定された。
1978年から1992年までにかけてはジノー族が認定され、これより人口の九割を占める漢民族以外に55の民族が存在するとして人民政府より56中華民族が公認された。
天安門事件以降
六四天安門事件が起こった1989年以降、中華人民共和国政府は一貫して「安定は全てを圧倒する(穏定圧倒一切)」を重要視してきたが、その目的は一党独裁の政治を完遂し、正当化を図ることであった[4]。すなわち一党支配を正当化・擁護し、上からの強権的統制と下からの経済成長を結びつけることにより、独裁国家が大衆から広範な支持を得ていることを演出し、理論的に提示することにあった[4]。「中国の夢(中国的夢)」を掲げる習近平政権に入ってからは、いっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになり、2014年のウルムチ駅爆発事件以降、習近平中国共産党総書記は、今こそ「社会の安定」を実現すべしと訴え、さらに「中華民族共同体意識」を「鋳造」しなければならないと主張してさまざまな強権政策を打ち出している[1]。俗に言われる憲法違反にあたる民族分裂運動を阻止するための政策と見られる。
アヘン戦争以来の中華文明の衰退を挽回して「富強」を実現するためには漢族・中華文明を中心とする「中華民族」と名付けられた国民共同体をつくろうとしている中国では、すべての人々が取り込まれるべき「中華」という名の「人民」「民族」が、まずは想定されるのであり、個人や個別文化はそのなかに埋没されやすい[1]。しかし、この「単一民族」国家観は同時に、諸民族の相違を党と国家が公定し、固定しているため、少数民族問題をさらに複雑なものとしているが、一方で民族分裂運動による統一中国の崩壊を防いでるともいえる[1]。