水木京太
From Wikipedia, the free encyclopedia
秋田県平鹿郡横手町(現・横手市)大町中丁の旧家に、町会議員を何度も務めた七尾重兵衛の長男として生まれる[4]。慶応義塾大学に入学後文学を専攻し[1][3]、在学中に小山内薫に師事した[2][3]。盲腸による腹膜炎で一年休学[5]。大正8年(1919年)卒業[6]。
資生堂の嘱託となり、大正9年(1920年)から同14年(1925年)まで『三田文学』の編集に携わりつつ[5]、慶応義塾大学講師として劇文学を担当[7]。この間、劇作家としても多くの戯曲を発表し、評論家として『東京朝日新聞』に演劇の評価も記した[2]。また、『赤い鳥』等で児童文学も多数執筆している。童話作家以外では掲載回数が最も多く、35作ある[8]。さらに、小説の執筆、ラジオドラマの演出(脚色も?)なども行っている[9]。
大正13年(1924年)小林豊子と結婚。翌年長女の伶子が、昭和2年(1927年)には長男の路伊が生まれる[5]。
昭和5年(1930年)に丸善(現在の丸善雄松堂)の嘱託となる(1946年まで)。洋書の調査解説宣伝、社史の編纂、同社が発行する読書雑誌『学鐙』を主宰する[5]。
またヘンリック・イプセンに造詣が深く、その作品の研究をライフワークとして継続するが[2]、生涯を通してイプセンの書籍は一冊も出さなかった。戦時中は戦災で書斎と大量の本を失う。防空壕に持ち込んで難を逃れたのは、イプセンと猫に関するわずかの書籍だった[10]。愛猫家としても知られたが、夫人が猫嫌いであったため、飼うことは諦め、猫に関する書籍を多数収集[4]。猫の随筆もいくつも残している。
戦後には月刊雑誌『劇場』を立ち上げ、主幹として活動した[1][3]。しかし昭和23年(1948年)、かつて罹った盲腸による腹膜炎が再発し、中野病院にて急逝[5]。55歳だった。没後は多磨霊園に葬られた。
『劇場』の水木京太追悼特集に文章を寄せたのは、小宮豊隆、高橋邦太郎、岩田豊雄(獅子文六)、伊藤熹朔、三宅周太郎、宇野信夫、木村毅、八田元夫、大江良太郎、浜村米蔵、伊志井寛、潮崎佐一、岡田八千代、山本安英、杉村春子、大岡龍男、七尾伶子、兒玉琢爾、久保田万太郎である[5]。
演劇評論家の杉山誠は水木について、「殊のほか潔癖で律儀で強情であった」「孤高の人であった」が、決して独善ではなく、温かい愛情があったと記している[11]。岩田豊雄は「あんなガンコ男がどこにいるだろう。イプセンとオサナイに一生を捧げた男。日本の劇壇に一人しかいない男だった」とその死を悼んだ[6]。
東京都高等学校演劇コンクール中央発表会の「水木京太賞」は、水木の功績を記念したものである[6]。