水野幸吉
From Wikipedia, the free encyclopedia
旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。
幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。同窓生に美濃部達吉がいる。同年に外交官試験に首席で合格し、大韓帝国の仁川に赴任した。1899年、ドイツ帝国の首都ベルリンに移り、1901年12月、清国の煙台に赴任。この任期中に日露戦争が始まり、ロシア帝国の旅順艦隊が出航したことを本国に打電している。
その後漢口で勤務し、1907年1月に一等書記官となり、同年12月アメリカ合衆国のニューヨーク総領事となった。日米友好の証として、写真家のエライザ・シッドモアが構想し、ウィリアム・タフト大統領夫人が協賛したワシントンD.C.のポトマック川とニューヨークのハドソン川沿いの桜の植樹を、小村寿太郎や尾崎行雄、渋沢栄一、高峰譲吉などとともに尽力した。1911年に清国公使館に移り、1913年に北京公使館勤務となった。伊集院彦吉と山座円次郎の両公使のもと、借款問題や辛亥革命の処理に当たった[1]。大正3年5月23日北京にて客死した[2]。享年42。墓所は祐天寺にあり、正面に「酔香之骨」と刻まれ、妻の峰子や長女とともに眠る。国文学者の佐々政一は友人であった。
脚注
|