永井流養蚕術
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永井流養蚕術(ながいりゅうようさんじゅつ)は、群馬県で明治時代に発案された養蚕技術。名称は発案者である利根郡片品村出身の永井紺周郎(ながい こんしゅうろう)にちなむ。
その主な手法は「いぶし飼い」と呼ばれるもので、蚕室内に火を起こして煙で充満させる[1][2]。これは、戊辰戦争中に永井宅に寄宿した官軍が火を炊いたあと、作に恵まれたことから着想したとされ、火や煙がカイコに不適とする当時の常識を覆すものであった[1][3]。
永井紺周郎は永井流養蚕術の普及のため、「永井流養蚕伝習所」設置願を出すが、1887年(明治20年)5月に57歳で死去した[3]。妻いとが遺志を継ぎ、自宅に伝習所を開設し指導にあたった[3]。川場村と勢多郡敷島村にも支所が設置された[4]。生徒は伝習所に宿泊して学ぶ本科生と自宅で巡回指導を受ける別科生があり、両方合わせて1500人以上に上ったとされる[3]。
渋川市横堀に「報恩碑」、渋川市赤城町勝保沢に「頌徳碑」、前橋市上大屋町に「紺周郎神碣」が建てられたことからも、多くの人の感謝の程が分かる[4]。ほかに前橋市日輪寺町にも碑が残る[5]。
しかし、永井は文献資料をほとんど残さなかったため、永井の没後、養蚕農家の減少とともにその事績は次第に忘れられた[1]。
2010年代になって、永井の地元である片品村ではその功績を伝える取り組みが進められている[1]。「永井流養蚕伝習所実習棟」をはじめとする永井流養蚕術に関連する遺産が片品村の重要文化財、ぐんま絹遺産、日本遺産「かかあ天下 -ぐんまの絹物語-」の構成文化財などに指定されている。(後述)