求子舞
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概要
東遊における位置づけ
歴史
求子は、平安時代には東遊の一部として知られていた。『枕草子』には「舞は、駿河舞。もとめご、いとをかし」と見え、駿河舞とともに求子が舞として鑑賞されていたことがうかがえる[4]。
求子歌については、現在伝えられる宮中奏演時の歌詞は、889年(寛平元年)の賀茂の臨時祭に際して藤原敏行が作った歌詞とされる。ただし、これはもとの歌曲に基づいて新作されたものとされ、神社に奉納される場合には神社ごとに歌詞が作られたとも説明されている[4]。
東遊は、平安時代には神社の祭祀に宮中から使いが派遣されて奉奏される歌舞であったが、室町時代に伝承が絶えた。現行の東遊は、1813年(文化10年)の石清水の臨時祭で再興され、今日の宮中や神社の祭祀に伝えられる[7][2]。
近世後期の再興においては、文化年間の賀茂・石清水の両臨時祭再興に際し、安倍季良を中心とする当時の在京楽人が主導的立場を担った。塚原康子によれば、初めて東遊の舞人を務める楽人は、舞師家である辻家から駿河舞・求子舞の伝授を受けた[8]。