江戸の大殉教
From Wikipedia, the free encyclopedia
背景
1623年8月に徳川秀忠が将軍職を辞した後に将軍に任じられた[2]徳川家光は、秀忠のキリシタン抑圧政策を継続し、宗門改役を設け、日本におけるキリスト教撲滅政策に用いた[3]。家光は反キリスト教法規を継続するだけでなく実行にうつすをことが重要だと考え[3]、それが江戸の大殉教の発端となった。
家光が1623年10月18日に京都から戻って間もなく数多のキリシタンが捕縛され、江戸の小伝馬町牢屋敷に収監された[4]。この捕縛はキリシタンである旗本・原胤信の使用人の密告が発端となった[5]。
収監したキリシタンの扱い方を決める問題に対し、家光は秀忠から将軍自身が行わなければならないと助言され[4]、収監した51名のキリシタン全員を処刑することに決めた[4]。
処刑の日は1622年12月4日と(ママ)決められた[6]が、この日は多くの大名が1年のこの時期に江戸にいるために行われたと考えられている[6]。
処刑
処刑は1622年12月4日に江戸の田町で行われた[7]。処刑場は京都と江戸を結ぶ五街道で最重要な東海道の道路際が選ばれた。往来の多い場所が選ばれたのは、大量処刑を見せしめとするの効果的と考えられたからと考えられている[7]。
馬に乗せられたイタリアのイエズス会士ジロラモ・デ・アンゼリス、フランシスコ会司祭フランシス・ガルヴェ(フランシスコ・ガルベス)、日本のキリシタン旗本原胤信の3名を先頭にキリシタンたちは市中を引き回された後、処刑が執行された[8]。イエズス会年報によると、[注釈 1]。
馬上の3人は脇に置かれ、他の47人がまず火刑に処せられていた。それからジロラモ・デ・アンゼリス、フランシス・ガルヴェ、原胤信の火刑が続いた[11]が、1人は棄教し火刑を免れた[12]。
同年報では、このような厳罰となったのは、
この人々はキリシタンであるが故に非常な厳罰に処せられている[13]。
としている。
殉教者一覧

50人の内36人の氏名が明らかになっている[14]。
- 原胤信
- ジロラモ・デ・アンゼリス
- フランシスコ・ガルベス神父(カプチン・フランシスコ修道会)
- タケヤ・ゴンシチ・レオ(ジロラモ・デ・アンゼリスの世話人)
- カシヤ・ハンザブロウ
- ジョン・チョウザエモン(フランシスコ・ガルベスの伝道師)
- シモン・エンポ(イエモン)(イエズス会)(1580年生まれ、ジロラモ・デ・アンゼリスと同宿)[5][15]
- ペテロ・キサブロウ
- ジョン・マタザエモン
- ミカエル・キザエモン
- ローレンス・カシチ
- マティアス・カザエモン
- ローレンス・カクザエモン
- マティアス・キザエモン
- トーマス・ヨサク
- ペテロ・サンタロウ
- ペテロ・サザエモン
- マティアス・セキエモン
- イグナティウス・チョウエモン
- シモン・ムアン
- デニス・イオクヌ
- アイザック
- ボナベントゥレ・キュウダユウ
- ジョン・シンクロウ
- ヒラリー・マゴザエモン(フランシスコ・ガルベスの世話人)
- フランシスコ・キザエモン
- サシモノヤ・シンシチロウ
- ジョン・チョウザエモン
- ロマン・ゴンエモン
- エマヌエル・ブエモン
- ペテロ・キエモン
- キザブロウ
- ペテロ・チョウエモン
- アンドリュー・リスケ
- ラファエル・キチザエモン
- キシチ
- アントニオ
列福と追憶

処刑された50人の内、47人については詳細が不明なため、ジロラモ・デ・アンゼリスとシモン・エンポ(イエモン)、フランシスコ・ガルベスだけが1867年7月7日にピウス9世により日本の殉教者205人の一環として列福された[16][17]。ジョン・モンドノスケ・タネノブは後に他の日本の殉教者187人と共に2008年11月24日に長崎でベネディクト16世により列福された[18][19]。
