池之上格

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1954-05-19) 1954年5月19日(71歳)
身長
体重
182 cm
82 kg
池之上 格
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 鹿児島県垂水市
生年月日 (1954-05-19) 1954年5月19日(71歳)
身長
体重
182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手内野手
プロ入り 1972年 ドラフト3位
初出場 1976年4月10日
最終出場 1988年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

池之上 格(いけのうえ とおる、1954年5月19日[1] - )は、鹿児島県垂水市出身の元プロ野球選手投手内野手)。

アメリカンフットボールXリーグオービックシーガルズの池之上貴裕は親戚。

プロ入り前

鹿児島県屈指の進学校[2]鶴丸高では3年次の1972年に春の県大会準々決勝で鹿児島商との延長18回引分け再試合を制すると決勝では鹿児島商工に延長10回完投勝利して優勝。夏の県大会は準々決勝へ進出するが、照国高に敗退。

プロ入り後

同年のドラフト3位で南海ホークスに投手として入団[1]し、最初の3年間は二軍で鍛えられる。

1976年4月10日日本ハム戦(大阪)で初登板を果たすと、翌11日には早くも初勝利を挙げた。同年7月25日近鉄戦(大阪)では1イニング3暴投の日本記録と1イニング11失点のパ・リーグワースト記録を喫した。

1977年10月6日の日本ハム戦(後楽園)では消化試合ながら僅か90球で完封勝利を記録した[1]

1978年には14勝でウエスタン・リーグ最多勝を獲得するなど活躍を期待されるも伸び悩み、オーバースロー、サイドスロー、スリークォーターと次々フォームを変更。1979年はウエスタンで6勝9敗、126回投げて防御率4.79であった。

1977年オフに現役引退・一軍監督に就任した広瀬叔功は池之上に打者としての適性を感じており、広瀬からは野手転向を勧められていたが、1979年終盤にウエスタンで近鉄・仲根正広(同年から野手に転向した同学年・プロ同期)に本塁打を打たれたことを機に転向を決断。入団時から野手転向まで、二軍の打撃成績は50打数23安打・打率.460と野手顔負けの数字を残していた。

1981年頃から一軍に定着し、長打力は無いものの小技とガッツ溢れるプレー、勝負強い打撃で内野の控えや代打の切り札として活躍。短く持ったバットに担ぐ様な構えで球に食らいつき、死球が多かったが[3]、粘り強い打者であった[4]。守備では内野のユーティリティープレイヤーであった[5]。同僚からの人望もあり、2年間も選手会長を務めていた[2]

1983年には1番・一塁手に定着して83試合に先発出場し、規定打席には届かなかったが、打率.265・7本塁打の好成績を記録する。

1984年には長打力のあるクリス・ナイマンの入団で定位置を追われるが、三塁手として立石充男と併用される。

1985年も三塁手のレギュラーを山村善則と争う。

1986年は故障もあって出場機会に恵まれず、同年限りで自由契約になる。

1987年にプロ入り時の南海コーチであった古葉竹識が監督に就任した横浜大洋ホエールズへテスト入団し、新天地でも内野のユーティリティプレイヤーや代打として起用される。同年の大晦日に放送された『ビートたけしのスポーツ大将』のスピンオフ特番『元祖ビートたけしのマラソン野球』に出場し、草野球の投手相手に三振している[6]

1988年引退。

引退後

引退後は大洋スコアラー(1989年)を経て[2]1990年からは古巣・南海の後身であるダイエーにスカウトとして復帰し、小久保裕紀井口資仁川崎宗則を担当[2]。1990年の沖縄読谷で行われた春季キャンプでは、この年に就任した田淵幸一監督と法大時代にバッテリーを組んだ1学年後輩の山中正竹がキャンプ地を視察していた[2]。山中はバルセロナオリンピック野球日本代表監督に就任しており、田淵は「これからのことは、山中にすべて聞け!」と、池之上を紹介している[2]。山中は大分県出身で、池之上とは同じ九州人として、馬が合った[2]。池之上は定期的に開催された全日本の合宿や大会に全て帯同し、現場には廣岡知男牧野直隆山本英一郎などアマチュア球界の重鎮が集まるほか、高校、大学、社会人の指導者も集結する中で、山中を通じてネットワークを構築[2]。当初、ダイエーはバルセロナの本大会への視察を予定していなかったが、池之上は、編成トップの球団本部長宛にリポート用紙5枚の手紙を書いた[2]

2000年世界少年野球推進財団に勤務。

2001年からは阪神タイガースに移籍[2]。編成面の強化を図りたい球団の意向があり、野村克也監督(南海入団時の監督兼捕手)はこの人事に際して強く推した[2]鳥谷敬安藤優也能見篤史植田海などを担当し[2]2016年には企画・編成担当、2019年には虎風荘副寮長を歴任。

2020年退団[2]2018年には甲状腺乳頭癌を患い、約7時間の手術を受けた[2]。神経を傷つけると声を失う危険性もあったが、無事であった[2]。退団後は球界から一線を引き、2021年1月から大阪府門真市に本社を置く物流企業「SEHIRO」にシニアマネジャーとして勤務[2]。70人のドライバーとのグループLINEを通じた業務連絡で、安全に仕事を回す役職であり、一人ひとりのドライバーに対し、愛情を注いだメッセージを送信している[2]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1976 南海 140000100--1.00014432.03441901154024236.471.66
1977 32110100--1.0006216.0101412500552.810.88
1978 50000000------273.213120140010715.754.09
通算:3年 222110200--1.00023351.25762514244039356.061.59

年度別打撃成績

















































O
P
S
1976 南海 14000000000000000000----------------
1977 3000000000000000000----------------
1978 8000000000000000000----------------
1980 1330100010000000000.333.333.333.667
1981 5023238502090100000022.217.217.391.609
1982 6720189420063000010120.222.300.333.633
1983 12038933648891417126325518217116358.265.329.375.704
1984 9422118425475046414311901008202.255.322.348.670
1985 10027323928721502933542421909236.301.372.389.761
1986 7880000000000000021.000.000.000.000
1987 大洋 621079710265203550240402122.268.311.361.672
1988 445044412302218002000472.273.333.477.811
通算:12年 5701094952132256445153559713104745114010323.269.331.373.704
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

投手記録
  • 初登板:1976年4月10日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(大阪スタヂアム)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初勝利:1976年4月11日、対日本ハムファイターズ前期2回戦(大阪スタヂアム)、6回表無死に2番手で救援登板・完了、4回無失点
  • 初奪三振:同上、6回表に上垣内誠から
  • 初先発:1977年8月31日、対阪急ブレーブス後期12回戦(県営富山球場)、6回0/3を5失点
  • 初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1977年10月6日、対日本ハムファイターズ後期13回戦(後楽園球場[1]
打撃記録

背番号

  • 36 (1973年 - 1982年)
  • 15 (1983年 - 1986年)
  • 67 (1987年 - 1988年)

メディア出演

脚注

関連項目

外部リンク

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