汲黯
中国・前漢の官吏
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概要
生涯
汲氏は十代前の先祖が衛の君主に寵愛されて以来、先祖代々卿大夫の地位にあった。汲黯は父の任子によって仕官して景帝のとき太子洗馬となり、厳格で憚られた。
紀元前141年、景帝が崩じて太子の劉徹(のちの武帝)が立つと謁者となった。閩越が攻撃し合った際、巡察の任を受けたものの呉まで行って戻ってきてしまい、「越が攻撃し合うのは習俗であって天子の使者を辱めるようなことではありません」と報告した。河内郡で火事があり千世帯余りが被災した際、再び巡察を命ぜられて帰ってくると、「火事は家が連なっていて延焼しただけで憂うことではありません。しかし河内を通過した際、貧民1万世帯余りが日照りに苦しんでおりましたので、節によって河内の食料庫を開いて貧民に与えました。命令を曲げた罪に服します」と報告した。武帝は彼を賢明と思い罰せず、滎陽県令に任じた。汲黯は恥じて仮病により家に戻ってしまったため、武帝は彼を中大夫に任じて召還した。
しばしば直諫することがあったので長く近侍することはできず、やがて東海太守に遷された。よく病して家から出ないことも多かったが、凡そ一年後、東海郡は大いに治まった。この功によって建元6年(紀元前135年)主爵都尉に親任され、九卿に列せられた[1]。
武帝が朝廷に儒者を招こうとした時、汲黯は「陛下は内心では欲が多いのに外面で仁義を施そうとしても、どうして尭舜の治世に倣うことができましょうか」と発言し、武帝は怒りで顔色を変えて退出した。周囲の者は汲黯を責めたが、汲黯は平然と「天子が三公九卿を置くのは阿諛追従で主を不義に陥れるためなのか?高位にあるというのに、どうしてこの身を惜しんで朝廷を辱めることができようか」と答えた。
元朔5年(紀元前124年)、御史大夫公孫弘が丞相に官を進めると、汲黯を嫌忌していた公孫弘は微罪に託けてこれを誅殺するため、汲黯を円滑な治政の難しいことで有名であった右内史に推薦した。しかし、右内史の治政は滞ることなく行われたという。なお、以前から汲黯と公孫弘・張湯(酷吏として知られる)とは犬猿の仲で、嘗て汲黯は武帝の面前で張湯に対して「お前は大臣でありながら先帝の大業を受け継ぐこともできず、天下の邪心を善に導くこともできないのに、どうして高祖(劉邦)の約束した律令を改めようとするのか。お前は斯様なことをしていては子孫も残らないであろう」と謗ったり、公孫弘を「法律万能主義で、天子に阿る佞巧の徒」と悪評していた[2]。
この頃漢は匈奴と激戦して周辺の異民族を懐柔していたが、汲黯は仕事量の短縮のため、常々匈奴と和親を結んで兵を起こさぬよう求めていた。しかし、衛青らが匈奴に対して輝かしい戦果を挙げるようになると、汲黯の言葉は徐々に取り上げられぬようになっていた。また、自分が九卿だった頃は小吏だった公孫弘や張湯が、今や自分を追い越して丞相や御史大夫に官を進めることに不満を覚え、武帝に「陛下が大臣を用いるのは薪を積むようでございます。後から来た者が上に来ております」と上奏したが、武帝は「確かに人は学問を修めねばならぬ。汲黯の奏上は日を経る度に酷くなるものな」と皮肉した。
元狩2年(紀元前116年)、驃騎将軍霍去病の攻撃によって匈奴の昆邪王が漢に降伏すると、その軍勢を迎えるために馬を民間から供出させようとしたが、民は馬を隠し、これに怒った武帝は長安の県令を斬ろうとした。しかし汲黯は「私を斬れば民は馬を出すでしょう。匈奴が降伏したからといってどうして天下に騒動を起こして中国を疲弊させなければならないのでしょうか」と言い、武帝は黙然となった。その後、昆邪王が漢に来てから、匈奴相手に商売をした罪で500人が死罪に当たったため、汲黯は「私の思うに、匈奴の降伏者を得たなら奴隷にしてこれまで従軍して死んだ者の家に下賜するべきであって、長安で匈奴相手に商売したことが罪に当たると知らなかっただけの民を殺すのは陛下のためによいとは思いません」と諫言したが、武帝は容れなかった。この数ヶ月後、汲黯は法律に違反したとされて官を褫奪されたため、田園に蟄居した。
しかし数年後、民間で盗鋳[注釈 1]が頻発し、宸襟を悩ました武帝から淮陽太守に任ぜられた。汲黯ははじめその命を拒んだが、勅命のため行かざるを得なくなった際、大行令の李息に「張湯を排除せねばと自分まで一緒に罪を受けますぞ」と忠告した。李息は何も言わず、果たしてこのことが後に張湯が失脚するに伴って李息の罪となった。
なお、淮陽太守の任に就いた汲黯はこの地でも嘗てのような仁政を施し、その十年後に死去した。歿年は元鼎5年(紀元前112年)とも、元封2年(紀元前109年)とも言われ、定かではない[2]。
性格
- 黄老の学を深く修め、民を治めるにも部下を選んで任せ、些事は責めなかった。また自分に合う者は良く遇するが、合わない者とは会おうともしなかったので、他の者たちも彼と付き合わなかった。
- 文帝・景帝の二代に仕えた諫臣袁盎を慕い、灌夫・鄭当時らと仲が良かった。遊俠を好み、主君の顔色を窺わず直諫したので、長く地位にあることができなかった。
- よく病し、休暇が尽きそうになると武帝が特別に休暇を下賜していたが、恢復の兆しが現れぬと荘助が彼に休暇を与えるよう願った。武帝が「彼はどんな人物であろうか」と聞くと、荘助は「官にあっても人より勝っているところはありませんが、幼君を輔弼し守成することにかけては、孟賁・夏育のような勇士と雖も奪うことができないほどであります」と答えた。武帝はその言を肯定して「古の社稷の臣というのは、汲黯のような者が近いのであろう」と言った。武帝は大将軍衛青が宮殿内で側にいる時には彼の前で便器に跨ることがあり、丞相公孫弘と宴会の席で会う時には、冠を被らないでいることもあった。しかし汲黯に会う時には、必ず冠を被って礼を欠くことがないよう努めていたという。