汾陽光二
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現在の鹿児島市新屋敷町[3]で鹿児島県士族・汾陽光輝の次男として生まれ、先代の光清の養子となり、1877年(明治10年)に家督を相続する[4]。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)に陸軍士官学校第8期卒業[2][5][6]。
1897年(明治30年)6月に陸軍歩兵少尉・歩兵第39連隊大隊長、1900年(明治33年)に歩兵第11旅団副官を経て、1904年(明治37年)に歩兵第13連隊中隊長として日露戦争に従軍[2]。
日露戦争の後は、1912年(大正元年)9月に本職を免じられ名古屋陸軍地方幼年学校長、1916年(大正5年)1月に陸軍歩兵中佐・歩兵第33連隊附、1917年(大正6年)8月に本職を免じられ桑名連隊区司令官、1919年(大正8年)7月に陸軍歩兵大佐を経て、1920年(大正9年)8月に歩兵第36連隊長(第9師団、歩兵第6旅団)に任官[1][5][6]。連隊長としてシベリアに出征し、ザバイカル方面での作戦に参加した[5]。
その後、1923年(大正12年)8月に陸軍少将・第11師団司令部附、1924年(大正13年)12月に歩兵第27旅団長、1928年(昭和3年)8月に陸軍中将・由良要塞司令官を経て、1929年(昭和4年)8月1日に待命、同月31日に予備役に編入した[1][5][6]。