沈斌 (五代)
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若くして胆気があり、はじめ朱全忠に仕えて小校となった。天祐3年(906年)、崇勇軍馬軍指揮使に任じられた。後梁に入朝して典衛兵をつかさどり、龍驤軍都指揮使・拱宸軍都指揮使を歴任し、戦功を重ねた[1][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が後梁を平定すると、沈贇は段凝らに従って後唐に降伏した。同光3年(925年)、魏王李継岌に従って前蜀を平定した。康延孝が反乱を起こすと、沈贇は李継岌により一行馬歩軍都虞候に任じられ、兵を率いて任圜に従って漢州で康延孝を襲撃し、これを捕らえて献上した[1][2]。
天成元年(926年)、明宗が即位すると、沈贇は検校司空・虢州刺史に任じられた。のちに壁州・随州・石州・衛州・威州・衍州・忻州・趙州の刺史を歴任し、検校太保に累進し、輸忠宣力功臣の号を賜った[1][2]。
後晋の開運元年(944年)、沈贇は祁州刺史となった。開運2年(945年)、契丹が侵入し、鎮州から転進して、疲れ弱った兵が牛や羊を駆って祁州の城下を通り過ぎると、沈贇は州兵を出してこれを攻撃させた。契丹は精鋭の騎兵で迎え撃ち、州兵は契丹に敗れた。趙延寿は祁州を攻め立て、沈贇に降伏を勧めた。沈贇は城壁に登って呼ばわり、降伏を拒絶した。翌日、祁州は陥落し、沈贇は自ら首を斬って死去した[3][4]。