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沢城 (大和国)

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沢城(さわじょう)は、大和国宇陀郡沢(現在の奈良県宇陀市榛原沢)にあった日本の城山城)。宇陀郡国人沢氏の本城で、永禄3年(1560年)から10年ほどのあいだ松永久秀方の手に落ち、高山飛騨守が城主として入った。キリシタンの城となったことでも知られる。

芳野川中流の沢の谷の背後にそびえる伊那佐山の支峰に位置し、標高は538メートル、比高は190メートルを測る[1]

歴史

松永方の宇陀侵攻

永禄3年(1560年)11月、三好方であった松永久秀は宇陀郡へ攻め込み、沢城と、同じ宇陀郡で沢同名衆である檜牧氏の本城・檜牧城を落とした。檜牧城が落ちたのは同月24日である[2][3]

金松誠は、沢城の周囲に残る三宮寺城・平井城について、いずれも沢城からよく見える丘の頂をあえて避けて立地し、虎口を沢城の方角へ開いていることから、沢城攻めにあたって松永方が築いた前線の陣城とみてよいとする[4]

高山飛騨守の在城とキリシタン

落城後、松永方の高山飛騨守が沢城へ入った[2]ルイス・フロイス日本史』は、永禄6年(1563年)5月ごろの記事に「沢城主高山図書」と記し、永禄7年(1564年)初夏の記事では、飛騨守が沢という一城の主でそれを久秀から授けられたと述べている[5]

永禄7年初夏、高山飛騨守は沢城にロレンソ修道士を招いた。城は厳重に警戒され、城内には300の兵とその妻子が住んでいたという。ロレンソの説教により飛騨守の妻マリアや子女、城兵ら150名が洗礼を受け、城内には教会堂が建てられた[6]

沢氏は沢城の奪回を幾度か試みており、永禄8年(1565年)ごろには豪農を用いた策略をめぐらしたが、仲間の密告によって露見して失敗している[6]

沢氏の復帰

永禄10年(1567年)ごろ、沢方満が北畠家の力を借りて沢城を奪回した[7]。永禄11年(1568年)には沢氏の在城が確かめられるので、それまでに松永勢は退いたことになる。復帰後の沢氏は天正10年(1582年)ごろまで在城したとみられる[8]森田恭二は、天正4年(1576年)ごろに兵糧と火薬の欠乏によって城が放棄されたとする記述を紹介している[9]

構造

城内は北と南で縄張りの性格が異なる。南側の最高所が主部にあたるが、南側の曲輪にはほとんど土塁が見られない。これに対し北側は土塁と横堀で曲輪を囲い込んでおり、外部の防御ラインが優位で、内部は曲輪としては不十分である。北側の曲輪の土塁は一部で南側の曲輪に対しても設けられている[10][3]

主郭に対して独立性の高い曲輪があって主郭の求心性が弱く、虎口が明確でないにもかかわらず横堀・土塁といった城域を画すラインだけが発達している。多田暢久はこれを松永方の城の特徴とみており、金松誠も松永方による改修を受けたことは確実とする[10][3]

城からは北へ尾根が続き、その尾根上、城からかなり離れた位置に堀切が設けられる。さらに城は尾根続きを三重に堀切る[10]。北の尾根続きに立地する米山城(標高558メートル、比高210メートル)は沢城の支城とみられ、主郭を低い土塁で囲い込み、折れを伴う虎口と横堀を備えることから、こちらも松永方による築城ないし改修と考えられている[3]

山麓には沢氏の居館があり、その下に続く沢の谷には寺跡が数か所伝わって、小規模な城下町を形成していた[11]

史料の扱い

金松誠は、『厳助往年記』永禄4年3月19日条の「一、大和澤城忍入責落事」について、『澤氏古文書』『細川両家記』『足利季世記』『古記部類』『日本史』のいずれとも年月日が合わず裏付けが取れないとして、年月日の面で否定的にならざるをえないと述べる[12]

また、大門貞夫『キリシタン大名高山右近と大和沢城』(1978年)については、考察の根幹をシュタイシェン『切支丹大名記』の見解に置いているが、『切支丹大名記』が見解の根拠となる史料を提示しないまま論を展開しているため信用できず、したがって大門の見解も信憑性に欠ける、と評している[13]

脚注

参考文献

関連項目

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