沢氏 (大和国)
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出自
興福寺支配下の時代
永享元年(1429年)2月23日、興福寺の衆徒・国民が宇陀へ攻め入った。『満済准后日記』翌24日条は、沢・秋山の両氏が一矢も報いず自焼没落したと書きとめる[2]。
長禄2年(1458年)9月20日、沢氏は宇陀郡赤埴荘に置かれた赤埴の関を破った。同関は伊勢参宮と室生寺参詣の街道沿いに設けられたものである[3]。同年11月14日には沢から室生寺へ発向があって長老が追い出された。『大乗院寺社雑事記』はその理由を沢氏兄弟の確執に求めており、当時の長老は沢氏一族の者だったとみられる[4]。
文明4年(1472年)8月28日には、同じ芳野川流域に本拠を持つ芳野氏との間に合戦が起こり、衆徒・国民が合力して出陣した。9月2日には寄手の芳野が自焼して行方が知れなくなっている[4]。
畠山氏の内訌と宇陀
文明9年(1477年)に畠山義就が河内国誉田へ本拠を移すと、畠山政長・細川政元方との抗争が河内・摂津・山城・大和に広がる。沢氏は秋山氏・越智氏とともに義就方に属し、政長・政元・筒井氏と対決した[4]。
文明13年(1481年)8月には秋山・沢の両氏が長谷寺辺へ出陣し[5]、翌14年9月17日には越智方に合力して河内の足軽を率い、十市郷の焼き討ちに加わっている。森田恭二は、秋山・沢の両氏を伊勢北畠氏の大和における主力軍と位置づける[6]。
秋山氏との抗争と沢城の落城
文明16年(1484年)7月22日、諸木野をめぐる相論から秋山氏と沢氏の公事が破れ、合戦に至った。両氏と縁の深い北畠氏・越智氏がいずれも仲裁に入らなかったため、抗争は収まらなかった[6]。同年10月16日には北畠氏自身が沢を討つため出陣し、5か年の在陣も辞さない構えを見せる。10月25日について『大乗院日記目録』は「宇多沢新助責落之、国司并大衆向了」と書き、翌26日条の『政覚大僧正記』も沢城の落城を伝える。この合戦には越智家栄以下の大和勢も加わっていた[7]。
北畠氏の被官として
長享3年(1489年)2月、秋山氏の身上をめぐって北畠氏と越智氏が不和となり、伊勢道が不通となった[8]。同年6月26日、北畠氏は秋山氏の名代について越智家栄の干渉を退け、同名中に申し付けるよう沢兵部大輔方満に命じている。森田恭二は、沢方満がこのとき沢家の惣領として正式に認められたとして、この時期を沢氏の全盛期とみる[9]。
天文24年(1555年)10月には、北畠具教が秋山氏と沢氏の紛争を調停する判物を2通発している(『澤氏古文書』)。そこでは、秋山氏が合戦に及べば北畠氏が出馬して秋山を成敗すると約束されていた[10]。
北畠氏の被官としての沢氏の地位について、小林秀は『澤氏古文書』の残存文書の多さを挙げ、被官のなかでも高い位置にあったことを示すものと解している[1]。
松永久秀の進出とキリシタン
宇陀郡は遅くとも永禄4年(1561年)3月までに松永久秀方の手に落ち、沢城には久秀の部将高山飛騨守図書が入部した[10]。
永禄7年(1564年)初夏、高山飛騨守は沢城にロレンソ修道士を招いた。城は厳重に警戒され、城内には300の兵とその妻子が住んでいたという。ロレンソの説教により、飛騨守の妻マリアや子女、城兵ら150名が洗礼を受け、城内には教会堂が建てられた[11]。
沢氏は沢城の奪回を幾度か試みており、永禄8年(1565年)ごろには豪農を用いた策略をめぐらしたが、仲間の密告によって露見し、豪農は高山氏に捕らえられている。この経緯は『フロイス日本史』に記されている[11]。永禄10年(1567年)、沢方満は北畠氏の力を借りて沢城を奪回した[10]。