永禄3年(1560年)生まれ。はじめ若狭高浜の領主・逸見昌経[1]に足軽として仕える。
主君・昌経が天正9年(1581年)の京都御馬揃えの参加後まもなく死去し、遺領が溝口秀勝と武田元明に分配されると、丹後国の細川忠興に仕える。
その後、文禄の役や関ヶ原の戦いなどで軍功をたてた。ところが、豊前時代にはある誤解があって主君・忠興の不興を買い、豊前を離れている。大学が忠興のもとに出向くのは17年後のことである。
寛永9年(1632年)細川忠利にしたがって肥後熊本藩にうつり、同14年(1637年)、島原の乱に従軍した。
慶安3年(1650年)9月17日、死去。91歳。
子孫は熊本藩の重臣沢村氏1万1000石として仕えた。[2]