児玉幸多
From Wikipedia, the free encyclopedia
- 出生から学生時代
1909年、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市稲荷山)生まれ。
旧制東京府立第二中学、旧制成蹊高等学校[1][2]を経て、東京帝国大学国史学科に入学。児玉が少年期を過ごした故郷の稲荷山町は、江戸時代の善光寺街道最大の宿場町として栄え、明治期までは商都としても栄えた街であった。その最大の理由は、善光寺街道として知られる北国街道と北国西街道の事実上の合流点であり、善光寺街道から谷街道が分岐する交通の要衝であったためである。そういった自身の生い立ちの影響もあって、東京帝国大学文学部国史学科の卒業論文は「近世初期における農村の発達」[3]であった。
1932年(昭和7年)3月に東京帝国大学を卒業し[2][4]、同大学大学院に進学。
- 卒業以降
1934年、東京帝国大学大学院を満期退学。同年に第七高等学校造士館教授に就いた[5]。1938年(昭和13年)4月、学習院教授に転じた[6]。学習院大学では史学の教育・研究に尽力。1945年には、皇后宮御用掛、東宮職御用掛、宮内府御用掛。
- 戦後
1948年より学習院中等科長を務める。1949年に新制大学として学習院大学が開校すると、1950年3月より学習院大学教授を兼務した。 同年5月26日、昭和天皇と香淳皇后に「桜町天皇の御事蹟」と題する進講を行う[7]。また、1951年(昭和25年)5月から9月にかけて、皇居にて催された科学委員会合に出席。織田信長、豊臣秀吉について進講した[8]。 1961年3月、学位論文『近世宿駅制度の研究』を東京大学に提出して文学博士の学位を取得[2][9]。1961年に、文学部史学科が設置されると、その主任も務めた[10]。
1962年、学習院女子短期大学学長に就任。1973年からは学習院大学学長を務めた。1980年3月に学習院大学を定年退職し、名誉教授となった。その後は、品川歴史館館長、江戸東京博物館初代館長(1993年 - 1996年)をつとめた[6]。
2001年12月の敬宮愛子内親王生誕の「命名の儀」に先立ち、新宮の文運と健康を願って行われる皇室儀式「浴湯(よくとう)の儀」に91歳の高齢で、束帯姿の「読書役(とくしょやく)」として臨んだ。儀式は12月7日午前宮内庁病院内で行われ、新宮が浴殿に参入すると、鳴弦の中『日本書紀』の一節を朗読した[11]。
学界では、1996年、日本学士院会員に選出された[12]。1987年より日本歴史学会会長。また、地方史研究協議会会長、交通史研究会会長も務めた[6]。2007年、多臓器不全のため東京都武蔵野市で死去。