河原山城の戦い
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京芸和睦の成立
この戦いは伯耆国内での中世最後の戦いといわれるが、戦いに至るまでに次のような経緯が存在した。
天正7年(1579年)における中国地方の雄・毛利氏からの伯耆国国人・南条氏の離反を発端とした両者の戦いは、同13年(1585年)1月にいわゆる「京芸和睦」が正式に確定したことによって終結をむかえた。
南条氏の八橋城回復戦
毛利氏と敵対していた南条元続は、それに先立つ天正11年(1583年)の末に帰国しており、暫定的な形ではあるものの八橋城を除く東伯耆3郡を同12年(1584年)1月頃には毛利氏より引き渡されていた。
帰国後の南条氏は、毛利氏に属したままだった八橋城回復[1]のため奔走、尾高城の奪還を目指す行松氏[2]を支援するなどした結果、天正13年の春には念願の八橋城回復に成功した。その後の南条氏は行松氏を背後から支援する形で西伯耆における毛利氏支配に揺さぶりをかける行動を行うようになった。