鳥取県西伯郡米子町(現在の米子市)道笑町に生まれる[3]。
明道校から米子中学校(現在の米子東高校)へ進学する[3]。
1931年(昭和6年)日本大学社会学科卒業[1][4]。同大学社会学研究室助手となり、やがて講師、次いで1938年(昭和13年)予科の教授となる[3]。
1946年(昭和21年)故郷米子に帰り[3]、金光教米子教会長に就任[5]。
戦後のすさんだ人々の心を導くと共に、社会教育の振興に取り組んだ[6]。中でもボーイスカウトの再建、児童福祉施設わかば園の経営などの活動を通じて、次第に市政の在り方に関心を寄せ、彼を囲む市民の幅広い支持を得て、1963年(昭和38年)市長選に立候補し当選[1]、1983年(昭和58年)4月までの5期20年に亘る長期間在職した[1][6]。
市長の座を退いた後は、再び金光教の布教に力を尽くした。1991年死去。死没日付をもって従五位に叙された[7]。