野坂康夫
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| 野坂 康夫 のざか やすお | |
|---|---|
| 生年月日 | 1945年6月22日(80歳) |
| 出生地 | 鳥取県米子市 |
| 出身校 |
広島大学附属高校 東京大学経済学部(中退) |
| 前職 | 国家公務員(外務省) |
| 所属政党 | 無所属 |
| 親族 |
曽祖父・野坂吉五郎(米子町会議員) 曽祖父の兄・野坂茂三郎(衆議院議員) 祖母のいとこ・野坂寛治(米子市長) 祖父・野坂康久(米子市会議員) |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 2005年4月24日 - 2017年4月23日 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 2003年4月30日 - 2005年3月30日 |
野坂 康夫(のざか やすお、1945年〈昭和20年〉6月22日[1] - )は、日本の政治家、元外交官。元鳥取県米子市長(通算4期)。
鳥取県米子市出身。東京大学経済学部中退。1969年外務省入省。在英国大使館公使、在バンクーバー総領事などを歴任。2003年旧米子市長選で初当選。2005年の新市長選で当選。2013年4月、3選を果たした[2]。祖父は洋食のレストランおよびレコード、楽器店を営んでいた野坂康久(“十字屋”経営主)。祖母のいとこには戦後、米子市長をつとめた野坂寛治がいる[3]。
生い立ち
父・野坂陞三、母・千年の間に生まれた[3]。1人っ子である[3]。祖父野坂康久は、米子市東倉吉町で「十字屋」を経営、父や母、おばがこれを手伝っていたが、野坂が幼いころは、市会議員もしていた[3]。「十字屋」は、洋食のレストランで、レコードや楽器も売っていた[3]。野坂が生まれてすぐは、父母は角盤町の祖父の家に同居したり錦町に間借りしていたらしいが5歳ぐらいのときに十字屋の後ろ部分を改築して住居としたので幼稚園(マリア園)の途中から中学までそこで暮らした[3]。
学生時代
米子市立就将小学校、米子市立第二中学校、広島大学附属高等学校を卒業し[4]、東京大学に入学[4]。東大ではアメリカンフットボール部に所属[4]。大学3年生の時、1年間休学してヒッチハイクなどをしながら48カ国を回る貧乏旅行をした[4]。映画監督・長谷川和彦は高校・大学の同級生。
外務省へ
東大経済学部を中退し、1969年4月に外務省入省[5]。同期は20人だった[5]。同期には谷内正太郎、重家俊範、天木直人などがいる。最初の3ヶ月間は、外務省研修所などで研修を受けた[5]。1970年6月末、語学研修のため同期5人と共に渡米[5]。7月〜8月は6人一緒にハーバード大学のサマースクールに参加し、9月からはそれぞれ別の留学先に分かれた。野坂はアメリカ北東部のコネティカット州ミドルタウンにあるウエスレヤン大学に入学した[5]。
外務省では大臣官房国内広報課長、国連局経済課長などを務めた[4]。文部省(現・文部科学省)に大臣官房審議官(学術国際局担当)として出向[4]。海外では、アメリカ、フィリピン、フランス、中国、イギリス(公使)およびカナダ(在バンクーバー総領事)の6カ国で勤務した[4]。1998年9月、外務省を退官[4]。
米子市長に立候補
1999年、米子市長を2期務めた森田隆朝の後継候補として米子市長選に立候補予定であったが、森田が引退を撤回し3期目の立候補を表明したために一騎討ちの大激戦となり、野坂は僅差で落選。
その後は鳥取県国際交流財団顧問、米子ユネスコ協会常任顧問、(社団法人)日中協会評議員、広島大学教育開発国際協力研究センター客員研究員、鳥取県インディアカ協会会長などを務める[4]。
米子市長として
2003年、米子市長選に2度目の立候補をして初当選。2005年には淀江町との合併(新設合併)に伴う市長選に立候補し、当選。2009年4月に再選を果たし、2013年4月には3選を果たした[2]。
人物像
中学時代
米子市立第二中学校では陸上競技部に所属し、100m走、200m走などの短距離が専門だった[6]。早熟で中学生としては体格が大きく、もともと走ることが好きだった上によく練習をしたので、2年生以降、100m走では鳥取県内の大会で負けることはなかった[6]。3年生の時に11秒9という記録で、県内の中学生として初めて12秒を切った[6]。
東大の頃
アメリカン・フットボール部に所属[7]。2年の秋ごろになって、このまま専門課程に進んで卒業するのは物足りない、その前に外国に行ってみたいと思い始めた[7]。1年間休学して海外旅行することを決意[7]。20歳から21歳にかけて、野坂の楽しくかつ有意義な青春の1コマであったのと同時に、人生の進路を決めるきっかけとなった[7]。1966年4月、ソ連船に乗って横浜からナホトカに向かった[7]。10ヶ月半にわたる旅行で41か国(現在の国数では48か国)を訪れた[7]。旅の終盤、バンコクから船に乗り、4月の新学期に間に合うよう1967年2月末に帰国した。
趣味

(昭和29年、ラジオ山陰開局)