河合澄子

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河合 澄子
基本情報
生誕 1893年6月17日[1]
出身地 日本の旗 日本 東京府
死没 1956年1月15日
ジャンル 浅草オペラ
職業 歌手女優ダンサー
活動期間 1912年頃 - 1945年
レーベル ヒコーキレコード

河合 澄子(かわい すみこ、1893年明治25年〉6月17日[1][2] - 1956年昭和31年〉1月15日[3])は、大正時代から昭和初期に活動した歌手女優、ダンサーである。浅草オペラでは「お色気」を売り物としてとりわけ男性からの人気を博し、若き日の川端康成も彼女のファンであった[1][4][5][6]。浅草オペラの衰退後も舞台生命を保っていたものの、やがてエロ・グロ・ナンセンスの時代が過ぎて戦時体制に進んでいくとともに第一線から遠ざかっていき、不遇のうちに生涯を終えている[1][7]

本名は高久 ひさ[1][2]または高久 てう[8]といい、東京の生まれである[1][2]。生年月日についてはいくつかの説があるが、菊池清麿(2021年)、小針侑起(2024年)は1893年説を採っている[1][2]。小針(2024年)によれば、河合が浅草オペラのスターとして名を上げる前の経歴は判然としていない[1]。当初は新宿病院というところで看護婦として働いていたとも、[9]立教女学校を2年で中退して芸能の道に進んだともいう[10]。芸能生活のスタートは、有楽座の女優募集に応じたことであった[1][7]。その後、高木徳子の主宰していた帝國ダンシングスクールで舞踊を学んだ[1]。ただし、高木からは破門扱いにされている[1]。その後ローシー歌劇団にも参加していた[7]

河合が名を上げたのは、1918年(大正7年)のことであった[1]。彼女は東京歌劇座(浅草オペラ隆盛のきっかけとなったといわれる)旗揚げから数か月後、その舞台に立った[1]。彼女は東京歌劇座への出演によって、のちに「伝説的」とまで形容される人気を誇ることになった[8]

東京歌劇座は、石井漠澤モリノ杉寛木村時子など、帝国劇場歌劇部の出身者が看板スターの座を占めていた[1]。その中でトップスターとなったのは澤であった[8]。澤は帝国劇場歌劇部一番の優等生であり、指導に当たっていたローシーからイタリアの女流舞踊家モリーノの名をもらって芸名にしたほどであり、豊富な舞台経験とともにスターにふさわしい実力を備えていた[8]。澤に対して河合は一介のコーラスガールに過ぎず、舞台経験も乏しかった[1][8][9]

小柄で可憐なタイプの澤に対して、河合は「当世風の美人」と評された容貌に加えて豊満な肢体と「お色気」を売り物とした[9]。そのうえに舞台上から赤色の名刺をばらまいてみたり、楽屋にファンの学生たちを招き入れて秋波を送ってみたりなどと、劇場の内外でもファンサービスを怠らなかった[9]宮尾しげを(1961年)は自著『風流旅日記』の中で彼女が「ノーズロ」で踊ったという評判が立ち、観客がわれもわれもと押し寄せてきたという話を紹介した[注釈 1][11]

河合はとりわけ男性からの人気を博し、澤に肩を並べるほどの人気者にのし上がった[1][8][9]。劇場の2階席に陣取る男子学生たちは左右に分かれて「モリノ!モリノ!」、「澄子!澄子!」とコールし合い、その熱狂で台詞も歌も聞き取れないことさえあったという[8][12]

特に熱狂的なファンがついたのは、河合の方であった[8]。彼女は優等生的な澤とは違い、歌やダンスの実力とはかかわりなく別の魅力を持っていた[8]笹山敬輔(2014年)は「芸がうまい訳でもなく、歌が唄えた訳でもない」という同時代人の評を紹介している[注釈 2][8]

笹山は河合の人気が分かる文章として「東宝」昭和10年12月号から次のように引用している[8]

河合澄子が鴇(とき)タイツ(注:淡いピンク色のタイツ)に短いスカートで舞台へ現れニヤリニヤリしながらダンスを軽快に踊り始めると、血の気の多い新時代の若い青年たちは嬉しくって嬉しくって堪らなく成ってきて「河合ー!」と場内の四方八方から物すさまじく連呼するを例とし、(中略)団体を組織し小旗を押し立てて日本館へ繰込み、「フレイ澄子!フレイ澄子!」」声高く頓狂に連呼するものさえ出来、為に学校の学課を欠席するような不心得者をすら出すに至ったのであります。『幻の近代アイドル史 明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』[8].

若き日の川端康成は、河合の熱狂的なファンの1人であった[6][4]。当時18歳の川端は彼女観たさに劇場へと通い、そのことを日記[注釈 3]に書き残している[6][4]

前三度行ったよりあっさり観客が増した。学生が多い。やじも沢山きている。矢張り河合澄子は美しい。あやしげな幻の病的の世界に私を導かずに措かない[8][4]。(後略)『川端康成全集 補巻一』、p.447.[4].

河合のファンたちは、劇場の外にまで彼女を追いかけるようになった[8]。彼らは当時彼女の住んでいた浅草の家まで押しかけ、家に通ずる細い路地には毎日のように20-30人のファンたちがたむろして交通の邪魔になるほどの事態を引き起こした[8]。この事態に対して警察が動き、交通整理をしたり、学業をサボる学生たちを取り締まったりした[8]

河合にとって不幸な事態が、1918年(大正7年)1月に起こった[8][9]。それは熱狂的な浅草オペラファン(俗に「ペラゴロ」と呼ばれた[注釈 4][8][12])で構成されたオペラ女優後援会の学生が検挙されたことであった[8][9]。悪質なペラゴロの中には学業をサボることはおろか、後援会の会費や女優へのプレゼント代を親からだまし取ったり、ときには恐喝に及んだ者までいた[8]。この事態を取り上げた報道(同年1月26日付朝日新聞)[9]では、特に後援会員数の多い女優として河合の名前が出されていた[8][9]

この報道以後、河合は「問題の女」、「問題女優」、「発展女優」などと呼ばれ、さまざまなゴシップが報じられるようになった[8][9]。「お色気」を前面に打ち出したうえに、既に述べたとおり舞台上から赤色の名刺をばらまいてみたり、楽屋にファンの学生たちを招き入れて秋波を送ってみたりなどの姿勢が「挑発的」と問題視された[1][9]。そして劇団内でも反感を買い、東京歌劇座を退団することになった[1][8][9]。退団について、石井漠は休演中の河合が幕の間に花束だけ受け取りたいと申し出たことを咎めたところ、そのまま河合が出ていったと証言している[8]

東京歌劇座を退団後の一時期は、浅草オペラでの舞台から遠ざかっていた[1]。1918年(大正7年)3月には自らを座長とした日本バンドマン一座を旗揚げしたものの、この一座は彼女1人の人気に頼っていたため地方巡演の後に解散することになった[13]。横浜での公演や楽劇座(赤玉ポートワインがスポンサーであった)[1]の看板スターとして東京以外で活動を続けていた[1][14]。浅草から離れていた時期には、自らのオリジナル作品として『お夏狂乱』を創作し、浅草に戻ってからも再演している[15]

河合が浅草に戻ってきたのは関東大震災の翌年、1924年(大正13年)のことであった[1]。彼女は当時の浅草オペラのスターが集まる森歌劇団の一員となり、舞踊「南洋みやげ フラフラ・ダンス」を披露した[1]。しかし彼女の舞台は上演禁止の措置が取られた[1]。小針(2024年)は「相変わらず、お色気の話題に事欠かず、逆に彼女の存在を知らしめたことだろう」と評している[1]

時代が大正から昭和に移るにつれて、浅草オペラの人気は下落した[1]。河合は映画界に活路を求めて一時は松竹キネマの女優となったが成功には至らず、舞台の世界に戻った[1][2][7]エロ・グロ・ナンセンスの時流に乗った彼女は、好敵手の木村時子とエロ合戦を繰り広げて話題を振りまいた[1]。しかし河合の主演舞台はまたもや上演禁止となっている[1][7]。小針(2024年)は「風俗雑誌」1930年8月号の記事を紹介し「河合澄子そのもの自體がすでに超エロ的で、あの豊満な肉體や爛熟しきった甘すっぱさが、(中略)何の事はない全身性殖器と云えば足りるような気がする」という記述に「ここまで上演禁止が繰り返されると、逆に河合自身が仕掛けた炎上商法ではないかと思われるほどである」と指摘している[1]

やがてエロ・グロ・ナンセンスの時代が過ぎて戦時体制に進んでいくとともに、河合は第一線から遠ざかっていった[1][7]。それでも浅草の劇場への出演や戦地慰問などの活動を続けていた[1]

晩年は不遇で、近年まで複数の資料で「没年不明」扱いにされていた[10][2][7]。ただし、1959年(昭和34年)発刊の『昭和年間芸能文化人忌辰録日牌』では「丗一年一月十五日」没と記述されている[3]。宮尾(1961年)も「今年の一月十五日に日本橋本町四番地[注釈 5]で死んだ」と知人の内山惣十郎から聞いたという[11]。宮尾は続けて「すっかり白髪になり、ゴムマリのようだった頬もやせおとろえて、昔を知ってる人には思いもよらぬ変りかただったということである」と記述した[11]

評価と人物

経歴の節で既に述べたように、河合に対する同時代人の評価は歌・演技・ダンスのすべてにおいて芳しいものではなかった[8][16]。河合自身も「歌劇役者としての修養は絶無」と述べている[16]

オペラ女優に必要とされる素養に欠けた河合がその代わりに活用したのは、自身の容貌と肉体、そして自らが作り出したゴシップと話題性であった[1][8][9][13]。「当世風の美人」と評された容貌に加えて豊満な肢体を活かして客席に向けて媚びと愛嬌を振りまき、さらにはすでに触れたように舞台上からの名刺まきや楽屋にファンを出入りさせるなどの営業努力も怠らなかった[1][8][9]。杉山千鶴は「しかし河合にとっては、これらのゴシップや称号(注:「問題女優」や「代表的発展家」などを指す)はむしろ話題性として、素養以上に必要なものであった」と指摘している[13]

21世紀になっても笹山(2014年)のように「優等生澤モリノvsぽんこつ河合澄子」などという評価が見受けられる[8]。東京歌劇座でトップの地位にあった澤は、河合とは不仲であったと伝えられている[8]。当時十代[注釈 6]であった河合に対して1890年(明治23年)生まれの澤は二十代後半にさしかかっていて、1919年(大正8年)に出版された『女盛衰記 女優の巻』では「あのお婆さん澤モリノ」とまで書かれていた[8]。さらに正式なオペラ教育を受けていた澤に引き換え、河合は一介のコーラスガールに過ぎない存在であった[8]

同時代人からの評価は芳しくなかったというものの、一部の歌劇通の中には彼女を絶賛する人もいた[6][17]。1919年(大正8年)に発行された『女盛衰記:女優の巻』ではオペラ界が彼女に対して技量や素養の不足をあげつらってけなそうとすることに憤慨し、「そういうことを言うのはオペラ女優に多く、嫉妬ではないか」と指摘している[6][17]。さらに実際の河合は芸に熱心な人物であると擁護したうえで、その魅力を次のように記述している[6]

彼女が舞台に現れると、何となく緊張した気分が漂って来る。底力のある緊張味が、舞台に漲って来る。然り、(河合)澄子は力の芸の女優である。そしてその情熱的な芸風も、彼女を確かにオペラ界の特異な位置に置かしめている。『女盛衰記:女優の巻』、pp.183-185[17].

同じく『女盛衰記:女優の巻』では「御承知の淫蕩な女性です。故永井徳子に次ぐのミラクルを持った女優です。それだけに話せる面白い女性です」と記し、月岡千草、木村時子、原せい子などの人気オペラ女優の名を挙げて「其の美しきものの中で別けて此の河合澄子などは、汚れた女にしろ。触感の強いものがある」などと称賛していた[18]。小針(2024年)は河合について「問題行動ばかりが目につくものの、話が分かる気の良い女性だったようで、愛すべき人物だったことが分かる」と評している[1]

脚注

参考文献

外部リンク

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