河野主一郎

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河野 主一郎(こうの しゅいちろう、1847年1月11日弘化3年11月25日) - 1922年大正11年)2月12日[1][2])は、幕末薩摩藩士明治から大正期の陸軍軍人政治家神職。官選青森県知事霧島神宮宮司

薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)出身[3]。薩摩藩士の家に生まれ、戊辰戦争に従軍。明治維新後、近衛陸軍大尉となる。1874年、下野した西郷隆盛に従い帰郷。私学校の創設に参画した。1877年西南戦争に五番大隊一番小隊長として従軍。同年8月、可愛岳突囲を提案し、辺見十郎太とともに先鋒を務めた。城山での籠城中、西郷の助命嘆願のため政府軍に赴き捕虜となる[4]

西南戦争後に懲役10年の刑で服役するが、1881年に特赦で出獄[4][5]。帰郷して互助・授産・教育を目的として三州社を設立[6]。その後、自由民権運動に加わるが、政府からの圧迫や全国各地の政党の衰退を受け、1884年末に政府の誘いを受けて官途についた[7]

1895年日清戦争末に比志島混成支隊に加わり、運送船「小倉丸」に乗船し澎湖諸島に渡る。田中綱常澎湖列島行政庁長官を補佐した[8]。その後、台北県宜蘭支庁長に就任し、1896年9月7日まで在任[9]

1897年11月13日、青森県知事に就任[8]1899年1月21日、知事を非職となる[10]

1918年12月18日、霧島神宮宮司に就任し[11]、在任中に死去した[12]

栄典

脚注

参考文献

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