熊本藩士の家に生まれた[3]。
維新政府の十三等出仕となる[3]。明治4年8月(1871年)、内務省土木寮・土木権頭に就任[4]。1873年11月、新川県権令に転じ、同県令に昇進。
1876年8月、青森県令に就任[3]。産業振興に尽力し、国内各地から馬耕教師(熊本県)、養蚕教師(福島県)、藍教師(高知県)、麻教師(栃木県)、製紙教師(長野県)などを招いて実際の指導を行わせた[5]。また、自由民権派と保守派の一致協力を推進しようとするが、保守派の反発を招き郡長辞任などで抵抗を受けた[3][5]。1882年1月、県政報告のため滞在していた東京で死去した[5]。