油川信貞
From Wikipedia, the free encyclopedia
武田親類衆・油川信次の子として生まれる。
油川氏は武田信昌の次男・油川信恵を祖とする一族で、信貞は信恵の玄孫にあたる。高祖父・信恵は勝山合戦で甥の武田信虎に滅ぼされたが、信恵の子である曾祖父・信友(源左衛門尉、入道加賀守)は生き残って信虎・信玄の二代に仕え[2]、天文19年(1550年)の砥石崩れで戦死し、祖父・彦三郎もまた永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにおいて戦死している。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで父・信次が討死すると、油川氏の家督を相続した。
天正4年(1576年)以降に深沢城代を務めていた武田重臣・駒井政直に代わって、駿東郡東部において奉行人としての活動を行っている「浄円」[3]と法名が一致することから同一人物である可能性が指摘されており[1]、事実であるとすれば父・信次の嫡男が長篠合戦で戦死し、仏門に入っていた浄円が還俗して油川家の家督を継いだのではないかと考えられている[4]。
天正10年(1582年)の織田信長による武田氏滅亡後、天正壬午の乱を経て甲斐を領した徳川家康に仕官し、知行38貫文を安堵された[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには東軍に属して参陣し、慶長19年(1614年)から翌20年(1615年)にかけての大坂の陣では伏見城在番を務め、寛永2年(1625年)10月、武蔵国都筑郡・上総国埴生郡・武射郡に350石を与えられた[1]。
寛永3年(1626年)6月23日に死去[1]。享年は70[注釈 4]、55[注釈 5]、56[注釈 6]と諸説ある。菩提寺は長竜寺。