治部卿局
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生涯
仁安2年(1167年)頃、平氏全盛期に同年齢の平知盛の妻となり、嘉応元年(1169年)に18歳で長男知章を生む。舅の平清盛の指示によって治承3年(1179年)に生まれた高倉天皇の第二皇子守貞親王の乳母となり、夫知盛と共に自邸で親王を養育した。
その後治承・寿永の乱が起こり、戦乱の中で長男知章は一ノ谷の戦いで討ち死にした。寿永2年(1183年)7月、守貞親王を伴って平氏一門の都落ちに同行。寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで夫知盛は自害し、平氏一門は滅亡した。治部卿局は生き残って守貞親王や建礼門院ら一門の女性たちと共に都へ戻り、縁者である藤原隆房夫妻の四条大宮邸に身を寄せた。守貞親王は上西門院統子内親王の養子となった事から、治部卿局は親王の乳母として上西門院に仕えた。守貞親王と共に藤原孝道に師事し、琵琶の名手となった。
建久7年(1196年)6月、都落ちの際に幼少であったため乳母に預けたまま生き別れになっていた次男知忠が謀反を起こして梟首される。首実検に呼び出された治部卿局は、生死も分からず成長した姿を見ていない知忠の首に、夫に似た面影を見て知忠の首であろうと答え、涙したという。
承久3年(1221年)の承久の乱後、後堀河天皇が即位し、その父守貞親王は後高倉院として院政を執った。治部卿局は後高倉院、新帝の母北白河院を支えて再び脚光を浴びる存在となる。寛喜3年(1231年)、80歳で死去。
『平家物語』が成立したとされる1230年頃、治部卿局は存命であり、平氏の血を引く天皇の世となって平家縁の女性たちが権勢を持った時代であった。『治承物語』が『平家物語』とタイトルを変えていったのは、当時の社会状況が微妙に影響した結果と考えられる[1]。
