沼賀健次
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| 沼賀 健次 ぬまが けんじ | |
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| 生年月日 | 1908年3月30日 |
| 出生地 | 群馬県群馬郡京ヶ島村大字京目(現・群馬県高崎市京目町) |
| 没年月日 | 1988年5月5日(80歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学経済学部(現・東京大学経済学部)卒 |
| 前職 |
群馬県立高崎商業高等学校校長 上武大学副学長 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 勲三等瑞宝章 |
| 親族 |
反町覚哉(祖父) 反町延太郎(父) 反町久弥(兄) |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1971年5月2日 - 1987年5月1日 |
沼賀 健次(ぬまが けんじ、1908年〈明治41年〉3月30日[1][2][3][4][5] - 1988年〈昭和63年〉5月5日[6][5])は、日本の教育者、政治家。元高崎市長(4期)、群馬県立高崎商業高等学校校長、上武大学副学長。旧姓は反町。位階は従五位。
群馬県群馬郡京ヶ島村[1]大字京目(現・高崎市京目町)[4][5]に、反町延太郎・チウ夫妻の三男として生まれる[1][4][5]。生家の反町家は庄屋の家柄で[4]、父・延太郎は京ケ島村長・群馬県会議員などを務める傍ら実業補習学校を設置するなど教育面に熱心だった。祖父・反町覚哉は群馬県会議員[1][7]、長兄・反町久弥も群馬県議会議員・京ヶ島村長・群南村長を務めた。
地元の京ヶ島小学校を経て[8][5]、1926年(大正15年)旧制高崎商業学校を卒業[1][9]。同校では野球部に所属したため明治大学商学部予科に進学するが[1][10][5]、肩の故障のため野球を断念[10][5]。山形高等学校を経て[1][2][11][5]、1934年(昭和9年)東京帝国大学経済学部を卒業[1][12][5]。
大学卒業後は証券会社に勤務[1][12][5]。1935年(昭和10年)母校・高崎商業学校の教諭となる[1][13][5]。同年碓氷郡八幡村(現・高崎市八幡町)の沼賀家へ婿養子に入る[1][14][5]。日中戦争に伴い1938年(昭和13年)から翌年まで召集された[15][5]。1939年(昭和14年)校長との対立により高崎商業学校を退職[1][15][5]。
ふたたび東京帝国大学文学部に入学して教育哲学を学んだ後[1][16][5]、1941年(昭和16年)福島経済専門学校(現・福島大学)助教授となる[17][5]。1942年(昭和17年)応召、終戦を中国で迎える[18]。最終階級は伍長[18][5]。1947年(昭和22年)に福島経済専門学校教授を辞職[1][2]。
1948年(昭和23年)、新制高校に改組された群馬県立高崎商業高等学校校長に就任[1][2][19][5]。1960年(昭和35年)まで勤める[1][2][20][5]。1950年(昭和25年)から1960年(昭和35年)まで群馬県高等学校野球連盟の会長も務めた[21]。1952年(昭和27年)に市立高崎短期大学(現・高崎経済大学)が開学すると非常勤講師を兼務[22]。
高崎商業高校校長を辞職すると第29回衆議院議員総選挙に民主社会党公認で群馬3区から出馬するが、結果は次点に終わる[1]。
1963年(昭和38年)学文館女子商業高等学校(翌年新町高等学校となる)校長となり[1][2][23][5]、1968年(昭和43年)まで勤める[2][24]。1968年(昭和48年)上武大学が開学すると副学長に就任[1][24][5]。1969年(昭和44年)11月退職[1][25][5]。
1971年(昭和46年)4月無所属で高崎市長選に出馬[1][26]。現職の住谷啓三郎市長を破り[26]、以降4期16年にわたり務めた[5]。市長としては教育行政に力を入れ、小中学校の新設や校舎の改築・新築、高崎市総合文化センターの設置などを実現した[27][5]。