泉沢久秀
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上田長尾氏の家臣である上田衆として早くから上杉景勝に側近として仕える。
天正7年(1579年)の段階で既に受領名である「河内守」を称しており、景勝の側近として奏者(取次)を務めていたことが確認されている[1]。
御館の乱後、景勝が上杉家の家督を継承した後も重用され、蔵奉行として財政に重きを成した。
また、景勝政権下において久秀は、直江兼続と共に上杉氏の公権を示す「黒印状」を単独で発給する権限を有していた。近年の研究によれば、当時この権限を持っていたのは兼続と久秀の2名のみであり、久秀は単なる奉行職を超えて、景勝の意思を直接執行しうる極めて高い地位(執政に次ぐ重職)にあったことが明らかになっている[2]。
天正14年(1586年)2月10日、上田衆に対して景勝が出した朱印状によると奉者を務めている。
天正16年(1588年)、景勝と共に上洛し、しばらく在京する。その間、公家の勧修寺晴豊と親交を持ったという。『晴豊公記』の同年6月の記述には、晴豊が久秀から金子を受け取った記録や、泉沢が晴豊を訪問した記録が残されており、上杉家の対朝廷交渉の一端を担っていた事実が裏付けられる[3]。
天正20年(1592年)朝鮮出兵のために肥前国名護屋城へ入った。
文禄3年(1594年)9月には、直江兼続の指示のもと、上杉家臣団の全容を把握・統制するための重要史料「文禄三年定納員数目録」の作成奉行を担当した。この目録には950名余の家臣の知行高と軍役負担が詳細に記されており、久秀が上杉氏の領国支配体制や軍役編成の中枢実務を担っていたことを示している[4]。
慶長3年(1598年)、上杉家が会津に移封されると、荒砥城代・若松所司代に任じられ、知行は1万1,000石を領した。荒砥城代在任中は、城郭の修築を行うとともに、領内の八乙女八幡神社の社殿修復や寄進を行うなど、地域の統治と安定に尽力したことが現地の棟札や郷土史料から確認されている[5]。
慶長6年(1601年)、上杉家が米沢に移封されると、2,815石を知行した。後年は直江兼続の属将であったという。
米沢藩成立後も、慶長8年(1603年)の直江兼続による徳川家康への年頭の挨拶に代理として派遣されるなど、引き続き兼続の補佐役として上杉家の重要外交や内政に関与した[6]。
元和元年(1615年)3月、死去。嗣子がなかったが、養子を迎え減封されたものの子孫は代々米沢藩士として続いている[7]。