法政大学53年館・第二58年館
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第二次世界大戦では法政大学の建築物の約3分の2は灰塵に帰した。1950年に法政大学の総長に就任した大内兵衞は失われた校舎の再建に取り掛かり、この当時に急増している学生数に対応するためにも校舎を建設することにして複数の校舎が建設されることになるのだが、そこで一番早く建設された校舎というのが53年館であった[一次 1]。それから計画で55年館と58年館と第二58年館が建設されていた[1]。 53年館は地下1階、地上6階の近代的な建物で、大学院の校舎として使用されていた。53年館はネオンが設けられ、夜には外堀によく映えていた。大宅壮一はそれを「HOTEL UNIVERSITY」だとしていた。大江宏によって設計された建築物であり、かねてから自由で美しく適切な表現方法で、学校建築としてはこれまでに無い方法で打ち出したと注目され、校舎の持つ機能性や合理性を最高度に発揮させていた。それまでの大学らしいアカデミックな建築様式から脱しており、能率的で衛生的を考慮したこの方法は建築界で高く評価された[一次 2]。
1994年1月に法政大学は市谷キャンパスの再開発計画が発表され、1950年代に建てられた建築物は建て替えられることとされていた。この計画は1期と2期に分けられ、1期では53年館と第二58年館を取り壊して、地下4階、地上27階の研究棟が建てられるというものであった。この計画には学生団体からの疑念も多く、学内での賛同も完全には得られず、法政大学教授の河原一郎は大江宏の建造物を残す代案を提出していた。当時の53年館はカーテンウォール総ガラス面の建築物で、真西に向いているため太陽の光と熱を受け、当時はエアコンが強力でないため室温は酷く、経費の面からルーバーは取り付けていなかった[2]。
それから53年館は解体され跡地にはボアソナード・タワーが建つ。第二58号館も解体されボアソナード・タワー地下駐車場につながるスロープとなる[一次 3]。