津田元親 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 天正10年6月19日(1582年7月8日)別名 定家、信明通称:次右衛門(治右衛門) 凡例津田 元親時代 戦国時代 - 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 天正10年6月19日(1582年7月8日)別名 定家、信明通称:次右衛門(治右衛門)主君 滝川一益氏族 津田氏父母 父:織田元定兄弟 元秀(元嘉)、元親、元綱、元勝、元継テンプレートを表示 津田 元親(つだ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次右衛門[1][2](または治右衛門[3][4])。名は定家[5]、信明[6]とも。 『因府録』所収の「津田系図」および東京大学史料編纂所所蔵の「織田系図」(原蔵者鈴木眞年)によると、尾張守護代織田氏の一族である比良城主・織田次郎左衛門元定の次男。元親の兄弟は織田信長に仕えて津田氏を称し、兄の九郎次郎元秀(津田元嘉)は織田信長の直臣、元親と弟の藤右衛門元綱、八郎五郎元勝、理介元継の4人は信長の重臣滝川一益に仕えた[1][2]。 天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死した際には、一益に従って上野国にいた。『関八州古戦録』などの軍記物語では、凶報を知らされた一益は篠岡平右衛門、津田次右衛門、甥の滝川儀太夫を集めて信長の死を告げたとされていて[4][7]、元親は篠岡らとともに一益の家老であったとされる[8]。 信長の死を知って上野国に侵攻してきた後北条氏を一益が武蔵国との国境で迎撃した神流川の戦いにおいて、元親は篠岡平右衛門とともに先陣を務め、弟の元勝、元継とともに戦死した[1][2][4]。小瀬甫庵の『太閤記』によると、滝川軍が敗勢となると篠岡平右衛門が津田次右衛門(元親)と八郎五郎(元勝)の兄弟に対して我々の兵2000人で戦って一益が退却する隙を稼ごうと声をかけたので、兄弟ももっともであると同意し、一益に退却を促す使者を派遣した上で一団となって敵軍に突撃し、全員が討ち死にしたが一益は無事に戦場を離脱することができたという[9]。 脚注 1 2 3 「因府録」『鳥取県史』 第6巻、鳥取県、1974年、234-235頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3041469/165。 1 2 3 『織田系図』(謄写版)、1886年。https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/202/0151?m=all&n=20&db=01。 (東京大学史料編纂所所蔵) ↑ 湯浅常山『常山紀談』有朋堂、1926年、191頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/113。 1 2 3 「上州治亂記」『国史叢書』国史研究会、1915年、126-137頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441725/75。 ↑ 「神流川合戰記」『埼玉叢書』 第二、三明社、1929年、432頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877340/224。 ↑ 『上野国郡村誌』 5 (群馬郡 2)、群馬県文化事業振興会、1980年、115-116頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9642299/64。 ↑ 「關八州古戰錄」『史籍集覧』 第5冊、近藤出版部、1925年、220頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/213。 ↑ 和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』中央公論新社、2017年、234頁。 ↑ 小瀬甫庵「太閤記」『史籍集覧』 第6冊、近藤出版部、1919年、440頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173/444。 Related Articles