篠岡平右衛門
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元は織田信長の家臣・滝川一益に仕える身分の低い奉公人で、山鹿素行の『武家事紀』によれば道具持ち[3]、湯浅常山の『常山紀談』によれば馬の口取り[4]であったという。「知謀と武勇を兼ね備えており、忍耐強い性格であった」(『甫庵太閤記』)ため一益によって小身から取り立てられ[5]、一益の重臣・笹岡彦次郎から名字を与えられて篠岡(笹岡)を称した[4]。
岡山藩の史料『黄薇古簡集』に、一益の子孫である岡山藩士滝川作介家に伝来した元亀3年12月(1573年1月)付けの篠岡平右衛門尉あて滝川一益判物が収録されており、これによると平右衛門は三方ヶ原の戦いの戦功により尾張国広井(名古屋市中村区)で30貫、早尾(愛西市)で70貫の所領を給付されている[6][7]。
『甫庵太閤記』によると、平右衛門は1000人ほどの配下を率いる侍大将となったが、あるときに一益の怒りを買って改易された。これを聞きつけた柴田勝家が平右衛門を引き抜こうと書状を送ったが、平右衛門は返事もせず、自分は一益の厚恩が深く、元のように小身に落とされようとも一益のお計らい次第に奉公したいと言って他家への仕官を望まなかったので、一益も平右衛門を許して重臣としたという[5]。
天正10年(1582年)、一益に従って甲州征伐に出陣し、新府城を逃亡した武田勝頼父子を田野で捕捉した滝川軍の先陣を滝川益重とともに務め、3月11日に一益の命令で勝頼を包囲し自害に至らしめた(『信長公記』)[8]。武田氏滅亡後、一益が上野国に入部したときには、平右衛門は一益の家老となっていた(『北条五代記』)[9]。
6月2日の本能寺の変で織田信長が横死したことは、9日に一益のもとに伝わった。『関八州古戦録』などの軍記物語では、凶報を知らされた一益は家老の篠岡平右衛門、津田元親、甥の滝川益重を集めて信長の死を公表すると提案し、平右衛門らの反対を押し切って国人を集めて告げたとされているが[10]、実際には一部にのみ伝えたと考えられている[11]。
信長の死を知った後北条氏が上野国に進出すると、一益が6月18日から19日にかけて武蔵国との国境で迎撃して神流川の戦いが起こった。平右衛門は全員が笹を指物とする部隊を率いて先鋒を務め(『北条五代記』)[9]、19日の2回目の戦いで北条氏直の旗本と戦って討ち死にした(『石川忠総留書』)[11][12][13]。『甫庵太閤記』によると、滝川軍が敗勢となると平右衛門は一益が退却する隙を稼ぐために津田元親兄弟とともに円陣を組んで敵軍に突撃し、揃って忠死したという[5]。
脚注
- ↑ 和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』中央公論新社、2017年、234頁。
- ↑ 桑田忠親『太閤記の研究』徳間書店、1965年、148頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2986793/82。
- ↑ 山鹿素行『武家事紀』 上巻、山鹿素行先生全集刊行会、1915年、724頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946584/383。
- 1 2 湯浅常山『常山紀談』有朋堂、1926年、191頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/113。
- 1 2 3 小瀬甫庵「太閤記」『史籍集覧』 第6冊、近藤出版部、1919年、440頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173/444。
- ↑ 『黄薇古簡集』 巻1。https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2071.75/3/2/0290?m=all&n=20。 (東京大学史料編纂所所蔵)
- ↑ 「黄薇古簡集」『岡山県地方史資料叢書』 第8、岡山県地方史研究連絡協議会、1971年、52-53頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3015267/32。
- ↑ 太田牛一『信長公記』 巻之下、甫喜山景雄、1881年、470頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781194/41。
- 1 2 「北條五代記」『史籍集覧』 第5冊、近藤出版部、1925年、103-104頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/353。
- ↑ 「關八州古戰錄」『史籍集覧』 第5冊、近藤出版部、1925年、220頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172/213。
- 1 2 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編 3 (中世)、群馬県、1989年、673-677頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9644421/348。
- ↑ 東京大学史料編纂所 編『大日本史料』 第11編之1、東京大学、1927年、662-663頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450624/366。
- ↑ 『石川忠総留書』。https://www.digital.archives.go.jp/img/4402624。 (国立公文書館デジタルアーカイブ)(6コマ)