津田重長
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紀伊国那賀郡[2]小倉荘(現在の和歌山県和歌山市・岩出市[2])の土豪である津田算正の次男として生まれる[3]。兄・刀祢楠は天正5年(1577年)に切腹しており、重長が家督を継いだ[1]。
重長は大和国郡山城主の増田長盛に仕え、慶長5年(1600年)、鉄砲衆50人を率いて関ヶ原の戦いに参戦したという[1]。その後、浅野幸長や小早川秀秋に仕え、慶長7年(1602年)に秀秋が死去した後、美濃国加納の松平忠政・忠隆に300石で仕えた[4]。
元和5年(1619年)[5]に徳川頼宣が紀伊に入国した際、鉄砲に関して有用な人材として重長を召し抱えようとしたが、重長は固辞したとされる[1]。重長は津田流砲術の伝書において、津田自由斎から津田流を継承したとされており[6][7]、父・算正や自由斎と同様、鉄砲の腕に優れていたとみられる[7]。また、津田流が砲術として確立したのは、重長や奥重政の代であると考えられる[1]。
寛永2年(1625年)、重長は死去した[8]。