海軍無線電信所船橋送信所
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沿革


左上に中山競馬場が確認できる。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成
無線関係の機器一式はドイツのテレフンケン社製のものが採用され、シーメンス社に発注が行われた。1913年に着工したが翌1914年に第一次世界大戦が起こり日本がドイツに宣戦布告をしたことからシーメンス社の技術者が図面を焼却、帰国してしまい工事は困難を極めたが[2]、1915年4月には開所式が挙行され[3]、同年7月23日から8月6日にかけて実施されたハワイ・オアフ島のカフク局との間で通信試験(第1回通信試験)で通信に成功[注釈 1]。同局を経由してのアメリカ本土への無線通信を可能とした[4]。8月より正式に軍用通信が開始された[注釈 2][3]。
1916年9月21日には逓信省の一等船橋無線電信局(コールサイン:JJC)が併設され[5]、外国航行船舶等に乗り組み日本を遠く離れていた船員達に大相撲の結果などを知らせ喜ばれるなど、民間向けにも利用されたという記録も残っている。
ハワイの無線局(1917年に島内のワヒアワへ移転)と日米間通信が1924年まで行われたが、中でも1923年に起こった関東大震災の際には銚子無線電信所と共に通信が壊滅状態になった東京都心の被害情報を横浜港に停泊中の船舶からの打電を受信して新聞社が集まる大阪市など国内外に発信、救援活動に多大な貢献をした。なお、この出来事は船橋の名を広く世界に知らせるきっかけとなった[6]。一方で不確かな流言もそのまま伝えたため、後日、所長の大森大尉は免職になったという[注釈 3][10]。同年、霞ヶ関の海軍省内に受信所が置かれたため名称が「海軍無線電信所」から「海軍無線電信所船橋送信所」に改められた。
昭和10年代には無線等の鉄塔に建て替えられた。鉄塔の高さは約60メートルから200メートル近くあるものもありランドマーク的な役割を担い、船橋市民に親しまれた。
戦後は進駐軍が接収し[注釈 4]、1966年に返還されたが1971年5月19日から解体が開始された(1972年まで)。
今日ではモニュメント(記念碑)が残されるのみだが送信所特有の円形の道路区画などはそのまま生かされている。約53ヘクタールの跡地の内11.9ヘクタールは行田公園となっている。このほかに教育施設(船橋市立行田中学校、船橋市立行田東小学校、税務大学校東京研修所)、行田団地などが設けられたほか、西側をかすめる形で武蔵野線が通っている。
なお電信所の鉄塔は水田や田畑の間に建っていたため、電信所施設以外は耕作などのため立ち入る事が可能だった。行田無線塔跡は2008年に電気通信技術の歩みを物語る近代化産業遺産群として近代化産業遺産に認定された。
歴代所長
- 徳田伊之助[注釈 5] 少佐:1915年2月5日 - 1916年4月12日
- 石田正一 少佐:1916年4月17日 - 1918年9月18日
- 福井愛助 少佐:1918年9月18日 - 1919年7月4日
- 大澤玄養 少佐:1919年7月4日 - 1920年1月19日
- 高山貞三郎 少佐:1920年1月19日 - 1921年11月22日
- 糟谷季之助 少佐:1921年11月22日 - 1922年2月21日
- 藤田寅治 少佐:1922年2月21日 - 1923年2月14日
- 田中茂支 中佐:1923年2月14日 - 1927年12月3日
- 渡辺鐐一 中佐:1927年12月3日 - 1929年11月30日
- 武田哲郎 中佐:1929年11月30日 -
