深沢修一
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甲府工業高校では、後に阪急ブレーブスの正捕手として活躍する中沢伸二の2年後輩であった。1965年秋季関東大会準決勝に進むが、金子勝美らのいた大宮高に敗れ、春の選抜出場を逸する。しかし翌1966年夏は、三番打者、中堅手として西関東大会決勝で上尾高を降し、夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが小倉工のエース横山晴久に抑えられ敗退[1]。高校同期に四番打者、一塁手の西村公一(卒業後、阪神タイガース→プロゴルファーに転向)がいる。同年11月、第2次ドラフト2位指名で投手として読売ジャイアンツに入団。
しかし入団直後に肩を壊し、外野手に転向するも公式戦に出場する機会がなく、1968年5月に川内雄富外野手との交換トレードで広島東洋カープに移籍。1971年には控え外野手の一番手につけ、8月以降は山本一義の故障もあって二番打者、右翼手として起用される。同年は44試合に先発出場、206打席に立ち打率.279の好成績をあげる。その後は打撃面で伸び悩むが、持ち前の俊足と強肩を活かし代走や守備要員としてチームに貢献した。1975年には、先発出場9試合ながらスーパーサブとしての役割を果たし、地味ではあるが広島のリーグ初優勝に力を添える。同年の阪急との日本シリーズでも3試合に出場、7打数2安打の記録を残した。その後も控え外野手として起用されるが、1979年には出場機会が減少、1981年オフに現役引退。
引退後は、山梨県甲斐市でバッティングセンター「スタジアム31」を経営している。山梨放送で高校野球を含む野球中継では解説も務めた。