清仁親王
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誕生時には父の花山法皇は既に出家しており、母の中務は出自が低かった。更に花山法皇は中務の実娘の平子も同時に寵愛して皇子昭登親王を儲けるなど複雑な事情があったために、異母兄の昭登親王ともども祖父冷泉上皇の子(第5・第6皇子)として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んだと伝わる。
一条朝の寛弘元年(1004年)兄の昭登とともに親王宣下を受けた。時の執政であった左大臣の藤原道長は複雑な背景を有する清仁・昭登への親王宣下に消極的であったが、花山法皇の意向を受けてやむなく従ったとされる。
寛弘8年(1011年)8月に藤原実資の加冠によって昭登親王とともに元服し[3]、9月には四品に叙せられる。同年10月の三条天皇の即位式では左の擬侍従に昭登親王、右の擬侍従に清仁親王が任命されたが[4]、結局清仁親王が左の擬侍従を務めた[5]。なお、長和5年(1016年)に行われた後一条天皇の即位式では、左方の侍従を昭登親王が、右方の侍従を清仁親王が務めている[6]。