清南寺 (長野県阿智村)
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| 清南寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 長野県下伊那郡阿智村清内路2116-1 |
| 位置 | 北緯35度30分16.2秒 東経137度40分56.5秒 / 北緯35.504500度 東経137.682361度座標: 北緯35度30分16.2秒 東経137度40分56.5秒 / 北緯35.504500度 東経137.682361度 |
| 山号 | 水晶山 |
| 宗派 | 真宗大谷派 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 法人番号 | 1100005009760 |
天正10年(1582年)、森長可と団平八の軍勢が清南寺口に打ちむかいと信長公記に記述があるが、清内路口と書くべきところを誤記したのかどうかは不明である。
延宝5年(1677年)と延享3年(1746年)、清内路村の高段別明細帳によると
一 阿彌陀堂 壱ヶ處 僧一人 是ㇵ藤作之分 御年具作ニ 而候
享保15年(1730年)、上清内路より寺の普請を荒町陣屋へ4回にわたり願い出て、12月6日に認可された。
享保16年(1731年)、6月、権右衛門と九平の両人が京都へ阿弥陀如来像を注文のため出立している。
元文3年(1738年)1月21日、阿弥陀如来像を迎えるために京都へ出立し、2月21日に帰郷した。
寛保2年(1742年)、ヨキトギ入口に寺普請が終わり、3月4日に入仏した[1]。
寛保4年(1744年)には、清南寺に現存する仏足図を迎えた。
宝暦3年(1753年)、飯田の善勝寺の内紛により、善勝寺の掛所(隠居寺)[2]として建替し入仏した。
文化2年(1805年)6月14日、梵鐘を注文し、9月19日に到着した。
文化3年(1806年)2月20日、清南寺の寺号と印を願い出た。
文化11年(1814年)、飯田の善勝寺から清南寺の命名の次第を東本願寺に届けている。
ちなみに下清内路の真宗大谷派の門徒は善勝寺の檀家であり、浄土宗の門徒は、飯田市山本の浄玄寺の檀家である。
明治7年(1874年)、清南寺に寺僧が居らず、筑摩県時代には説教所[3]となっていた。
明治23年(1890年)、桑畑沢に共同火葬場を建設した。それまでは、滝の沢の橋付近・宮の裏の水車があった橋付近・中平上の橋のむこう・堀田向かいの橋の脇・土佐下の橋の川端で火葬を行っていた。
上清内路集落の全員の遺骨が一つの大きな無縫塔の下に納骨されており、一山一墓で知られる。上清内路の数か所にある墓碑型名号碑は先祖供養碑である。
昭和31年(1956年)、清南寺檀家の悲願であった、善勝寺の信徒ではあるが、檀家ではないことが確認された。
昭和42年(1967年)3月末まで、境内には上清内路小学校が存在した。
文化財
阿智村天然記念物
- 清南寺の夫婦桜 (既に枝を残して枯れている)