荒町陣屋

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荒町陣屋(あらまちじんや)は、江戸時代信濃国伊那郡飯田城下(現在の長野県飯田市中央通り2丁目)にあった千村平右衛門家陣屋

千村氏陣屋とも呼ばれた。

尾張藩附属となる

木曾氏の家老であった千村平右衛門良重は、慶長5年(1600年)、木曾義利が不行状によって徳川家康から改易されたため浪人となった。

しかし関ヶ原の戦いの前に下野国小山東軍に加わり、前哨戦の東濃の戦いで戦功を挙げたことにより江戸幕府交代寄合となった。

慶長8年(1603年)、徳川家康から伊那代官の朝日受永の後任として、信濃伊那郡幕府領であった、上伊那の榑木[1]買納め5ヶ村(小野村、中坪村、野口村、八手村、上穂村の一部)と、下伊那の榑木割納め6ヶ村(大河原村、鹿塩村、清内路村、加々須村、南山村、小川村の一部)の合計6,197石を預地の伊那代官にも任命されたため、幕府から手数料を受け取るようになった。

これら信州伊那郡の預地支配するために、当初は、箕瀬羽場(長野県飯田市箕瀬町・羽場町)に陣屋を設置した。

元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、千村平右衛門良重と、山村甚兵衛良勝を召し出し、木曽を尾張藩に加封する旨を申し渡した。

千村平右衛門良重は、木曽と隔たった信濃伊那谷と遠江国北部にも所管地を有するため、尾張藩の専属になることをなかなか承知しなかった。

尾張藩初代藩主の徳川義直は同家が木曾衆を代表する家柄だけに、なんとしてでも尾張藩専属を果たそうとして、兄の将軍徳川秀忠に対して、尾張藩に属するよう命じられたいと談判に及んだ。

結局、元和5年(1619年)、秀忠の命令で幕府直臣(表交代寄合並)・信州伊那郡の幕府領の預地6,197石の代官と、遠江国の奥の山榑木奉行と、船明・大薗・日明・伊砂(伊須賀)の4箇村と西手領の代官を命じ、390石余預かりのままで尾張藩の大年寄となった。

千村平右衛門良重は信州と遠州預地管理をどうするか、老中を通して将軍に伺いを立てた。

これに対し、今後も支配するようにとの上意が下された。そこで、千村平右衛門良重は信濃伊那郡の預地は従来どおりとし、遠州奥の山を返上する代りに、同国の豊田郡船明村の榑木改役を務めたいと願い許可されて、船明村に御榑木屋敷を設置し、在地の渥美氏を下役に任用した。

信州伊那郡の預地を支配するために、箕瀬羽場(長野県飯田市箕瀬町・羽場町)に42年間、陣屋を置いていたが、当時、飯田藩主であった脇坂安元と協議し、土地交換を公儀(幕閣)に願い出て、明暦3年(1657年)飯田城下の荒町(長野県飯田市中央通り2丁目)に移転した。千村氏陣屋とも呼ばれ、面積は1,900坪あった[2]

「郷村鑑」の中に、「城下町之内 阿羅町陣屋」の記述がある。

但 阿羅町通り 家中屋敷 三町之内、中阿羅町 両側 千九百坪 美濃ノ國 八十一鱗[3]御領主 千村平右衛門殿 御預り (中略) 明暦ノ初年、御城主 脇坂氏ト 相対ニテ 公儀へ御願、箕瀬羽塲ノ 御陣屋ヲ 中荒町ヘ引移シ 千九百坪之外 役人衆 菜薗畑、傳馬町ノ 西裏ニテ、畑八枚渡ル 是ヲ 西裏ノ八枚畑 ト云。

畑は、善勝寺西教寺の裏に八枚を与えられた。

荒町陣屋の上役は「頭衆」で、その下に「手代衆」が通常3人所属しており、さらに中間を雇っていた。

預り高

慶長8年(1603年)の時点の千村平右衛門家の伊那郡における預り高は、約10,000石であったが、慶長11年(1606年)、その中の約5,000石が、今田の井上淡路守庸名に渡り、その後、駒場村の宮崎太郎左衛門安重に、前原村の市岡理右衛門正武に、向関村の宮崎清太夫重郷などの預地代官に若干が移管された。

元和3年(1617年)、脇坂安元が伊予国大洲藩から国替で飯田藩に移封して来た時に、4,600余石が千村平右衛門家の預地となった。

元和4年(1618年)、旗本近藤氏が、三穂立石に封ぜられた時に若干移管され、4,093余石となった[4]

同年、江儀遠山氏が幕府より改易されると、旧・遠山領の支配と、江儀遠山氏が上穂村の内に持っていた約500石も、千村平右衛門家が一時預かった。

元和5年(1619年)、近藤重直が上穂村の内で914石を知行することになったため、預分の一部を近藤に渡し、上穂村における千村平右衛門家の預地は165石となった。

徳川林政史研究所が所蔵する「千村家預信州伊那郡史料」の記録の中にある、宝暦11年(1761年)、千村平右衛門家の家臣の小嶋市右衛門が、勘定書からの尋ねに答えたものによると、慶長8年(1603年)に7,300余石、慶長13年(1608年)には小笠原秀政の御内方の領地から上知分の500石が増加しているが、その後は減少して寛永元年(1624年)には、5,000石余となっている。

また千村家の「奉ㇾ願口上書」によると、「慶長八年に伊那郡の内一万石餘御預」とある。

其の後、御榑木山4箇所、御林2箇所、村数11箇村、合わせて6,287石余とある。

慶応4年(1868年)2月の「尾張藩 徳川義宣 伊那郡 十一か村 千村平右衛門 支配継続願」には以下の記述がある。

謹テ 奉言上候、信州 伊奈郡 十一ヶ村髙 六千弐百石餘ノ儀、弊臣 千村平右衛門儀 慶長年間 關東ヨリノ 預地ニ 御座候間、今般、王政御一新 御復古ノ御廉ヘ付、右地爲差上候様可ㇾ仕ノ處、平右衛門 事素ヨリ 勤王ノ志ニテ 朝命聯違 背不ㇾ仕者ノ儀ニ付、前顕 預地 是迄 仕來ノ通同人ヘ支配 被仰付様 支度奉懇願候、誠惶誠恐 頓主敬白、

二月十一日

徳川元千代[5]

ちなみに十一か村預り高の合計は、6,287石2斗8合であった。

幕末の伊那郡内における預地

  • 小野村 1030石3斗0升5合0勺5才4撮
  • 中坪村 580石4斗3升7合0勺1才2撮
  • 野口村 899石8斗6升6合0勺2才8撮
  • 八手村 398石5斗7升9合9勺8才7撮
  • 大河原村 479石5斗7升2合9勺9才8撮
  • 鹿塩村 450石5斗5升2合0勺0才2撮
  • 清内路村 154石9斗4升4合0勺0才0撮
  • 加々須村 178石7斗0升5合9勺9才4撮
  • 南山村 656石2斗1升0合9勺9才9撮
  • 小川村 1251石0斗0升0合9勺7才7撮
  • 上穂村 207石6斗5升3合0勺0才0撮

脚注

参考文献

関連項目

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