清野信秀 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 不明死没 永禄8年1月12日(1565年2月22日)改名 清秀、信秀 凡例清野信秀時代 戦国時代生誕 不明死没 永禄8年1月12日(1565年2月22日)改名 清秀、信秀別名 勝照、美作入道、道寿軒戒名 禅透官位 伊勢守、山城守、常陸守主君 村上義清、武田信玄氏族 清和源氏村上氏流清野氏父母 父:清野国俊子 満秀、満成、雨宮正利、雨宮家次テンプレートを表示 清野 信秀(きよの のぶひで)は、戦国時代の武将。信濃村上氏の家臣。信濃国埴科郡鞍骨城主。 北信濃の有力豪族村上氏の支流。村上義清に従って武田信玄と戦った。天文19年の(1550年)砥石城の合戦では、9月1日、甲斐武田氏に寝返っており、『高白斎記』には「辛卯。申刻、清野出仕。」と記されている。その後、村上氏に再び従属したが、義清が信玄に敗れると、共に越後国の長尾景虎の許へ逃れる。 永禄2年(1559年)には武田氏に従って旧領の清野郷、雨宮郷を安堵され、偏諱を受け「清秀」を「信秀」と改めた[1]。 脚注 ↑ 武田信玄、「川中島合戦」戦費の負担求める 北信濃の家臣宛ての書状が見つかる信濃毎日新聞信濃毎日年2月28日 外部リンク 戸石城の戦い Related Articles