後冷泉朝末の治暦3年(1067年)左近衛少将に任ぜられると、後冷泉・後三条・白河の三朝13年に亘って近衛少将を務める。
承暦4年(1080年)左馬頭に遷ると、これを堀河朝半ばまで15年近く務める。この間に春宮・実仁親王の春宮権亮を務めたほか、寛治元年(1087年)には輔仁親王の元服において理髪を務めている[1]。
寛治8年(1094年)大蔵卿に遷り、康和2年(1100年)には従三位に叙され公卿に列す。康和4年(1102年)太皇太后宮権大夫を兼ねた。
鳥羽朝の天永2年(1111年)4月24日に腫物により薨去。享年62。特別才智は無かったという[2]。