源資綱
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後一条朝後期の長元4年(1031年)従五位下に叙爵し、同年従五位上に進むと、翌長元5年(1032年)侍従に任官する。長元6年(1033年)右近衛少将に遷ると、長元9年(1036年)正五位下次いで従四位下、長久2年(1041年)従四位上。長久3年(1042年)正四位下、長久4年(1043年)右近衛中将、永承2年(1047年)蔵人頭と、後一条朝末から後冷泉朝初頭にかけて、近衛次将を務めながら昇進を重ねた。この間、寛徳2年(1045年)尊仁親王が春宮に立てられると、資綱は春宮権亮に任ぜられている。
永承6年(1051年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官の傍らで右京大夫・右兵衛督のほか、尊仁親王の生母である皇太后・禎子内親王の皇太后宮権大夫を兼帯した。天喜5年(1057年)には従三位に叙せられている、
治暦4年(1068年)7月に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると資綱は正三位に昇叙される。さらに、同年12月には(太)皇太后宮権大夫の労により、先任参議の藤原泰憲・藤原顕家を越えて権中納言に昇進した。後三条朝では、その後も治暦5年(1069年)藤原経季を越えて従二位、延久2年(1070年)源隆俊を越えて正二位と、順調に昇進を果たしている。
白河朝に入り、延久6年(1074年)藤原賢子が中宮に冊立されると、資綱は中宮大夫に任ぜられた。承暦4年(1080年)中納言に至る。永保2年(1082年)正月1日に出家し、翌日に薨去。享年63。