無準師範
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破庵祖先の法嗣、門下に兀庵普寧・西巌了恵・別山祖智・断橋妙倫(以上、四哲と称す)・雪巌祖欽・無学祖元などがおり、日本僧では円爾がいる。中国五山の第一たる径山万寿寺の第34世に住し、円爾をはじめとして日本から無準に参じた僧は多い。日本禅林との関係は最も深く、最も強い影響を与えている。
無準は書法に長じ、多くの墨跡の名品を日本に伝えており、その書は張即之風で雄渾な大字で知られる。また『与円爾尺牘』の細字には別趣の味わいがあり、いずれも極めて格調が高い。無準は張即之と交渉をもったため、その弟子たちは好んで張即之の書を学んだ。
また無準は絵画にも非常に優れていたらしく、その弟子の牧谿は禅林が生んだ最大の画家で、その作品は日本にもたらされている。無準の著として『仏鑑禅師語録』が知られる[3][4][5][6][7][8][9][10]。
墨跡
- 与円爾尺牘
- 『与円爾尺牘』(えんににあたう せきとく)は、無準が円爾に書いた謝礼の尺牘。円爾が帰朝した翌年の淳祐2年/仁治3年(1242年)の夏、径山の寺塔が火事になり、円爾はその復興のために博多から板1,000枚を径山に送った。それに対する無準の謝礼が本状である。そのため俗に板渡しの墨跡と呼ばれ珍重されている。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は無準師範墨蹟(尺牘))[9]。