淳祐 (南宋) From Wikipedia, the free encyclopedia 淳祐(じゅんゆう)は、中国・南宋の理宗の治世に使用された元号。1241年 - 1252年。 プロジェクト 紀年法 淳祐元年2年3年4年5年6年7年8年9年10年 西暦1241年1242年1243年1244年1245年1246年1247年1248年1249年1250年 干支辛丑壬寅癸卯甲辰乙巳丙午丁未戊申己酉庚戌 淳祐11年12年 西暦1251年1252年 干支辛亥壬子 出来事 嘉熙4年 10月3日:翌年より踰年改元の詔が下る。 淳祐元年 正月15日:朱熹・周敦頤・張載・二程らが孔子廟に従祀。これから道学が儒学の正統となる。 7月:和議を求めに来たモンゴルの使者が抑留される。 11月16日:モンゴル軍が安豊を包囲したが、余玠の迎撃を受けて逃げる。 淳祐2年 2月:モンゴル軍が淮東・四川に侵寇する。 12月18日:孟珙が京湖安撫制置大使、余玠が四川安撫制置使に任ぜられる。 淳祐3年 3月:合州の釣魚山に築城する。 7月17日:大安軍がモンゴル軍により侵される。 淳祐4年 5月:モンゴル軍が寿春を包囲したが、呂文徳の迎撃を受けて逃げる。 8月15日:州県の租税を苛酷に取ることを禁ずる詔勅が出る。 12月4日:宰相の史嵩之が父の喪を理由に失脚する。 淳祐5年 5月14日:沿江・湖南・江西・湖広・両浙に輕捷戦船を建造し、遊撃の壮士を置くという詔勅が出る。 7月:モンゴル軍が揚州に侵入してから去る。 淳祐6年 正月元日:国用所が設置される。 5月22日:諸鎮に動員令を下し、辺境の守備を厳しくする詔勅が出る。 9月3日:孟珙死去。後任には賈似道が京湖制置使として赴任。 12月:モンゴル軍が京湖・江淮に侵寇する。 淳祐7年 2月8日:会子の使用期限を廃する。 6月27日:両淮・襄陽・四川に戦禍による死者の遺体を探し、これを収拾せよという詔勅が出る。 8月:呂文徳が泗州にてモンゴル軍を撃退する。 淳祐8年 5月18日:余玠が兵部尚書、賈似道が刑部尚書を兼ねる。 淳祐9年 3月7日:世界初の法医学者の宋慈が死去。 淳祐10年 2月9日:沿海の山奥・海島に保甲を置き、銅銭の流出と会子の偽造を取り締まらせる。 9月1日:賈似道が両淮制置大使に転任となる。 11月:余玠の率いる宋軍が漢中へ北上し、興元府を攻める。 淳祐11年 正月28日:沿江・沿海の州郡に水軍の制を厳しくする詔勅が出る。 4月17日:『淳祐条法事類』が完成される。 4月27日:宋軍が襄陽を奪還する。 淳祐12年 2月:モンゴル軍が京湖に侵寇したが、宋軍の守備に阻まれ去る。 8月25日:会天暦が施行される。 8月29日:翌年より「宝祐」へ踰年改元の詔が下る。 10月:成都に侵寇したモンゴル軍が敗退する。 他の王朝 モンゴル帝国 - 太宗オゴデイの13年 - 憲宗モンケの2年 関連項目 元号一覧 (中国) その他の淳祐 前の元号嘉熙 中国の元号南宋 次の元号宝祐 表話編歴宋の元号北宋の元号 建隆 乾徳 開宝 太平興国 雍熙 端拱 淳化 至道 咸平 景徳 大中祥符 天禧 乾興 天聖 明道 景祐 宝元 康定 慶暦 皇祐 至和 嘉祐 治平 熙寧 元豊 元祐 紹聖 元符 建中靖国 崇寧 大観 政和 重和 宣和 靖康 南宋の元号 建炎 紹興 隆興 乾道 淳熙 紹熙 慶元 嘉泰 開禧 嘉定 宝慶 紹定 端平 嘉熙 淳祐 宝祐 開慶 景定 咸淳 徳祐 景炎 祥興 中国の元号一覧 Related Articles