焦触

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焦 触(しょう しょく)は、後漢末の人物。生没年・本貫ともに不詳。袁紹およびその次男袁煕の武将。『三国志』魏書武帝紀、袁紹伝に記述がある。

生涯

姓名 焦触
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 大将〔袁煕〕→幽州刺史〔自称〕
爵位・号等 列侯〔曹操〕
陣営・所属等 袁煕→〔独立勢力〕→曹操
家族・一族 〔不詳〕

袁譚袁尚内紛当時、袁煕・焦触は涿郡故安県に駐留していた。建安9年(204年)9月、袁尚の本拠地・曹操軍の攻囲により陥落、袁尚は袁煕をたよりその保護をうける。翌建安10年(205年)1月、勃海郡南皮にて袁譚が曹操軍に敗れ戦死する。その報を知った焦触は同年1月、同じく袁煕配下だった張南とともに反旗を翻す[1]。焦触は幽州刺史を名乗ったうえで袁煕・袁尚を遼西烏桓の地へ追いやった。のちに曹操に降り、列侯に封じられた。

焦触と韓子佩

焦触は袁兄弟を追放すると、幽州の諸官・将兵を集めて曹操軍への降伏を決意する。白馬の血をすする形の盟約としたが、従わない者は斬り捨てると強制した。皆が従うなか、幽州別駕の韓子佩がただひとり反対をとなえる。「私は袁氏父子の厚恩を受けた者である。袁氏が破れたのに救う知力も死戦する勇気もなかった。曹氏に仕えるのは信義にもとる」 焦触は反応する。「大事を興すには大義を立てなければならない。いま事大するにあたり、ひとり留保する者がいる」 場は騒然となった。だれもが韓別駕の身を案じる。焦触は続けた。「君の意志は尊重する。信義を貫いてほしい」

韓子佩は故郷のある代郡に還ることができた。曹操は彼を高士とみとめ、招聘をたびたび試みるが応じなかったという。

生没年考察

生没年不詳の焦触であるが、史料には没年を推測できる可能性のある記述が2つみえる。

 その1 魏書武帝紀。建安10年(205年)4月、涿郡故安で趙犢・霍奴らが反乱を起こし、幽州刺史と涿郡太守が殺害されたという記事がある。

 その2 魏公卿上尊号奏。延康元年(220年)、魏王曹丕は後漢の献帝から帝位を禅譲される。この時、家臣団が曹丕に即位を勧めた上奏文は「魏公卿上尊号奏」と呼ばれている[2]。その家臣団の連名のなかに「征虜将軍・都亭侯・臣触」との文面があり、これを焦触に比定する説がある。

物語中の焦触

参考文献

脚注

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