熊谷直貞 (熊谷氏祖)
From Wikipedia, the free encyclopedia
生涯
安芸熊谷氏に伝わる熊谷系図などによると、父・平盛方は北面武士であり、平忠盛を襲撃したグループの一員だったため、天皇の怒りに触れて処刑[5]され、赤子であった直貞は、乳母に抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延びた。成長後、所領もない寄寓の身だったが、熊退治[6]で名を上げ、所領を得たという。別の説では代々続く領主であるとして、そのような伝説の欠落している系図もある。
当時の武蔵国には武蔵七党と呼ばれる武士団が割拠しており、直貞は私党(私市党)の一員もしくは私党の旗頭であったなどの伝承がある一方、上述のごとく、熊谷氏は丹治姓であり、秩父の丹党と同族とする伝承もある。熊谷郷は私党からも丹党から隔絶しているが、距離的にはちょうど両党の中間にあたり、独立系の弱小領主として、ある時は私党と、またある時は丹党と行動を共にしていた。この頃の家紋はまだ対鳩でなく、赤地水車、浪丸の四つ目結びを旗印にしていたという。