牛久助郷一揆
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佐倉藩の出兵
10月23日に、幕府老中の青山忠裕から佐倉藩主・堀田正順宛に「女化原で百姓共が集まり、騒立てているので、3人の代官と相談の上、早々取鎮めるよう」書付が渡された。そこで、「万一、百姓が手向かいする時は、飛道具(鉄砲)を使ってもよいのか」文書で問合わせたところ、「時宜によって飛道具等使っても苦しからず」と口頭で了解が得られた。早速、佐倉藩江戸屋敷から佐倉城へ連絡があり、同日午後4時から6時頃に、一番手(56人)と二番手(37人)の兵が龍ヶ崎宿へ向けて出立した。25日午後2時頃、三番手(38人)の兵を佐倉藩堺の松崎村へ派兵し、模様次第で差向ける事ができるようにした。
11月1日、3人の代官から、「老中青山下野守殿から引払いの御達」があった旨、仰せ渡され、一の手と二の手は同日16時に若柴宿を引払い翌12時に佐倉へ到着、三の手は20時に松崎村を引払い翌朝2時に佐倉へ帰着した。
土浦藩の出兵
土浦藩では、20日夕4時に手代からの要請を受け、とりあえず御徒目付の中川六郎兵衛他総勢17人を急派した。一の手は、夜9時に土浦を出発、深夜2時に牛久宿へ到着し、中川六郎兵衛が手代二人に面談した。打合せの結果、百姓共が牛久宿へ来る恐れが高く、二の手の増派が必要と判断し土浦へ連絡。21日夕4時に物頭の西川平次郎外総勢46人が土浦を出立、夜八時に牛久へ到着した。10月23日朝6時、三の手として御目付室兵右衛門以下34人が土浦を出立した。これに伴って、引続き四の手の体制整備を命じた。
10月23日、郷目付に申付、女化原を探索した所、百姓共は同日昼過に退散した事を確認した。土浦領烏山村名主の父親が扱いに立入、内々解決したものであった。これに伴って、四の手の派兵は中止とし、土浦で待機することになった。
麻屋治左衛門居宅打壊し
10月21日夕4時に百姓共1500人~1600人で、牛久宿の麻屋治左衛門居宅が打破られた。土浦藩の二の手が到着する前の出来事であり、一の手(17人)は、手代2人の旅宿佐野屋を固めていたが、その前を百姓達が手向いなどせずに通過した。