狄青
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西夏との戦争
儂智高の反乱
慶暦4年(1044年)に西夏との和議がなると、しばらくは現地で勤めていたが、1052年には枢密副史に任命され、都で勤務する。この枢密副史は軍事の副長官に該当する職で、たいていの場合は文官がなるものなので、武官上がりの狄青がこれを務めるのは異例のことであった。しかし、広源州の儂智高が華南で反乱を起こすと、その平定のため再び前線に出ることになる。
このとき、官軍はあまりに士気が低く、どうにもならない状況であった。そこで狄青は「今から銅銭を100枚投げるが、これで全て表が出るようなことがあるなら、これは神のお告げである。必ず官軍は勝つ」と発言した。このような確率的にありえないことが起こるとは到底思えなかった部下が狄青を諌めたが、かまわず狄青は銅銭を投げた。すると、すべて表を向けて転がった。実は、この銅銭はあらかじめ狄青が用意した、もともと表しかない銅銭によるイカサマだったが、そうと知らない兵らは大いに士気を上げ、儂智高の反乱軍を平定したという。
余生
反乱平定の功績により、狄青は武官の最高位である枢密正使にまで出世した。だが、狄青の余生はあまり幸福なものではなかった。あまりに出世しすぎたため朝廷から疑われ、至和3年(1056年)には枢密正使を免職され、陳州長官となる。 その後も朝廷の監視を受け、翌年に死す。享年50。
逸話
- このころ、一兵卒には逃亡防止のために刺青が彫られていた。もちろん、狄青にもこの刺青はあった。西夏との戦の時、狄青がざんばら髪に銅の面をつけて戦ったのは、敵を威嚇する目的もあったが、刺青を隠す目的もあったという。というのも、敵が「一兵卒出身の武将を使うとは、宋にはまともな人材がいないのでは?」と疑われるのを避けるためだったという。
- あるとき、将軍にまで出世した狄青に刺青があるのは望ましいことでないと考えた仁宗が、薬で刺青を取るように命じた。これに対して狄青は「この刺青があると、下級兵士の励みになるから消すわけにはいかない」と拒否したという。事実、狄青は下級兵卒にかなりの人気があった。
- 狄青が高官になってからのこと、彼に取り入ろうとした人物が、狄青は唐代の宰相であった狄仁傑の子孫にあたるという家系図を持ってきた。これに対し狄青は「自分は庶民の生まれで、そのようなことがあろうはずはない」と言ってはねつけた。狄青の謙虚さを表す逸話である[注釈 1]。
