狩野介 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 不明死没 永禄12年(1569年)主君 北条氏綱、北条氏康、北条氏政 凡例狩野介時代 戦国時代生誕 不明死没 永禄12年(1569年)主君 北条氏綱、北条氏康、北条氏政父母 不明子 狩野藤八?テンプレートを表示 狩野介(かのうのすけ)は戦国時代の武将。後北条氏家臣。駿河吉原城将、武蔵松山城将。実名不明。狩野介は狩野宗茂以降の狩野氏が代々継承していった名。 伊豆狩野荘を本拠とする狩野氏の一族であり、同じく後北条氏の家臣の狩野泰光と同族だと思われるが、系譜は不明[1]。天文5年(1536年)閏10月から史料に見られ始める[2]。天文14年(1545年)、駿河吉原城の城将を任じられるが、同年8月に起こった第二次河東一乱で、駿河今川氏の侵攻をうけ、吉原城から後退した[3]。天文19年(1550年)12月、武蔵松山城将に任じられた。天文21年(1552年)、石巻家貞と共に、鶴岡八幡宮の廻廊西門の六間分の普請を請け負った[4]。永禄2年(1559年)の『役帳』では松山衆筆頭・寄親に見え、武蔵高萩など所領821貫余を領している[5][6]。永禄12年(1569年)、駿河蒲原城の北条綱重へ、対武田氏の援軍として派遣されるも、同年12月6日、武田勝頼らの総攻撃により、氏信らとともに戦死した[7]。 家督継承者は不明だが、永禄3年(1560年)、上野高山城で「狩野介」と記されている人物が戦死している[8]。また、狩野介の所領であった伊豆松瀬が同じ松山衆の狩野藤八に継承されているため、藤八が狩野介の子である可能性がある。また、『役帳』によると、松山衆には狩野左近という人物も所属していた[9]。 脚注 ↑ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、224,225頁。 ↑ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、224,225頁。 ↑ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、224,225頁。 ↑ 戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2018年。 ↑ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、224,225頁。 ↑ 戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2018年。 ↑ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、224,225頁。 ↑ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年、224,225頁。 ↑ 戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2018年。 Related Articles